第8話 初めての患者
一週間、暇な時間はロールプレイをやらされていた。
それでも借金返済の足しになっていたらしいが、俺は実践に飢えていた。
「保険証?……んなもんねぇよ。つーか、出せるわけねぇだろ。」
「でしたら、10割負担になりますが……、本日はどうなさいましたか?」
「歯が痛いんだよ。痛いから来たに決まってるだろ。」
この辺りで俺も気付き始めていた。
ここには多少の飲み屋はあるが、歓楽街とは離れている。
真夜中のオフィス街で歯医者を探して彷徨うなんて、禄でもない奴に決まっている。
「神在月君、もう良いわ。彼を中に。」
「そういうこったよ。兄ちゃん、素人か。んじゃ、さっさとこのうざったい歯の痛みをどうにかしてもらおうかねぇ。」
男はうろんな目つきで俺を見ながら、ライラの後ろをついていく。
俺はただ、半眼で男を観察していた。
肩で風を切っているのか、肩が笑っているのか分からない男の背中。
そこに違和感がないかどうか確認をする。
俺としては、一般的な歯が痛いだけの患者であることを願っていた。
というより、よく考えたら初めての仕事だ、それなりのやりがいを見つけたい。
因みに、こんなガラの悪い男が来ることも、練習用フローチャートの分岐の一つである。
「奥の診療台よ。荷物は……持っていないようね。」
「そーだな。先生は俺の治療に専念すればいい。さぁ、早く準備してくれぇ。」
「落ち着きなさい。まずはどんな症状が出ているのか教えてくれる?5W1Hを聞かないと診断できないじゃない。」
そして、ここから先のフローチャートはこうだ。
患者が患者らしく振舞えば、何もせずに待機する。
でも、患者の様子がおかしければ、俺がこっそり警察を呼ぶ。
「決まってるだろ。歯が痛いんだよ。でっかい穴が空いてんだ。」
俺も警察に狙われていた筈だが、それはそれ、これはこれ、……らしい。
とにかく俺が捕まることはないらしいが、その意味は分からない。
「じゃあ、大人しくそこに寝転がって貰えないかしら。」
「チッ、もう面倒くせえなぁ。医者なんだから、患者の言う通りにすりゃいいんだよ!」
男の様子がおかしい。
ただ、やはり俺には何が何だか分からない。
「早く、ルーネリアセメントを持ってくりゃいいんだ!」
男の言葉に俺は110番の11まで押した。
彼が口走った単語は知らないが、強盗行為だろうことは推測できる。
だが、彼女の言葉に俺の手が止まる。
「睦君、警察はなし。こっちで手伝いなさい。」
「——え?俺が」
「あぁ?何しれっと警察呼ぼうとしてんだよ。医者としてどうなんだよぉぉぉぉ」
「睦君、か弱い女性が襲われそうなのよ。それでもあの子の彼氏なの?」
ライラの煽り言葉で俺の体が加速した。
頭に来たからだろう、軽い頭痛を感じながら奥の診療室へ向かった。
そして、俺が診療室に入る瞬間に、————彼女は考えられないセリフを吐いた。
「ダメ!今入ったら、君を人質にされてしまう!」
「って、いきなりそんなこと言われても——」
「チッ。聞いてねぇぞ、こんな話。それともこうした方が、会話しやすい癖でもあんのかよぉ。」
「ちょ、お前!」
「うるせぇ。バイトに用はねぇ。つーか、なるほどなぁ。こういう状況なら、てめぇのプライドを傷つけられずにすむってか?」
やはりこいつは暴漢野郎だった、どう考えても警察を呼ぶパターンのやつだ。
入った瞬間に男がいて、目に留まらぬ速さで回り込まれ、後ろから動きを封じられていた。
男は間違いなく手ぶらで来ていた筈なのに、俺の首筋には今、鋭利な何かが当たっている。
傍から見れば、ドラマでよくある風景だったろう、ただ一点を除いては。
「睦君、
殺される、という言葉で心臓が飛び跳ねる。
小鬼だと?いや、この力、この肌の赤さ。
それに俺の体は先ほどから悲鳴を上げている。
僅かに見える男の腕はプロレスラーのように太い。
そも、この男は俺が観察した時よりも、体が赤く、大きくなっている。
「気に食わねぇ女たぁ、聞いていたがマジでムカつくぜ。俺が雑魚だと?俺はなぁ、
「あんた達がウィナーズと呼んでいる群れに、偶に分けてあげているのは事実よ。——でも本来なら、ウィナーズの幹部クラスが訪ねてくるの。さぁ、あんたの正体はバレているんだから、私の大事な助手を離して帰んなさい。」
——その瞬間、俺の首に激痛が走った。
そして皮膚が破れる感触で、気絶しそうになる。
当然だが、こんなことはマニュアルには書いていない。
平和な毎日を送っていた俺は本当の恐怖を感じていた。
成程、本当に怖いときは声を出せないらしい。
「この女、頭湧いてんのか?俺は出口側、んで人質もいる。歯科医院で殺人事件が起きりゃ、この病院は続けられねぇかもなぁ。」
暴漢魔のその言葉で、俺は少しだけ余裕を取り戻した。
つまりは人質、人質とは死んでは意味がない。
「そ、そうです……よ。と、とりあえず犯罪者には従っておきましょうよ。」
「てめぇは黙ってろ!死にてぇのか!」
俺もライラを説得していたのに、何故か犯罪者に怒られた。
それだけでなく、犯罪者に屈してしまったという恥もかいた。
ただ、その様子を女は不思議そうに眺めていた。
そして。
「成程。君は本当に何も聞かされていないのね。」
「うっせぇっつってんだろ!ちゃんと先輩から聞いてきたんだよ。つーか俺は本気だぞ。人殺しなんて怖かねぇんだ。」
「あんたに言ってんじゃないわよ。——仕方ないわね。今回のことは給料から差し引くから……」
「へ?」
ライラは右手に握った先が張りのように細くなった歯科用器具・探針をクルリと翻し、そのまま踏み込んでその先端で俺の口の中を突いた。
「うごぉ‼」
俺は何が起きたのか分からず、ただ苦しいやら痛いやら。
だが、彼女は間違いなく、その探針の先で13番(歯の数え方の一つ。十の位は上下左右を示す。右上が1、左上が2、左下が3、右下が4。つまり13番は右上の犬歯のこと)を軽く突いた。
「てめ、人質が大事じゃなかったのかよ。あぁ、そういうことか。俺に罪を着せて警察に突き出すつも——」
「ちんぴらが何か言っているけど、後は自分でなんとかできるわよね、睦君?」
「はぁぁぁ?何言ってくれちゃってんの?……時間がねぇんだよ。さっさと例のものを——」
その瞬間、俺を締め付けていた圧がなくなる。
暴漢の体は何故か突き飛ばされて壁にぶつかったのだ。
棚に収納されていた医療器具が嫌な金属音をたてて、暴漢の頭や床に転がる。
あれらは滅菌しなおさなければならない、なんてこんな状況じゃなければ嘆いていただろう。
でも、俺は——
「これ……、この力、どういう……。首!俺の首の傷が治っていく?」
「クソ!素人くせぇと思ったら、てめぇもモーンストルムかよ!」
「当たり前じゃない。……法律に縛られてちゃ、ここでは勤められないでしょ?」
鬼の風貌になってしまった男に、傷を負った様子はない。
それどころか顔を真っ赤にして、何故か俺を睨んでいる。
何が起きたのかよく分かっていない俺だが、一つだけ分かったことがある。
——頭痛が消えた?
つまり、頭の中がすっきり爽快な気分である。
「睦君、彼を逃がさないで。自分の力だけで捕まえてみせなさい。」
「俺が⁉ってか、今、俺は何をしたんすか⁉」
「何も。君の力の発現の圧で吹き飛ばされただけよ。」
「クソ!これは罠かよ!でも、こいつが素人なのは変わらねぇ!」
これが、睦青年とモーンストルムとの出会いの瞬間だった。
◇
身長が2m以上に大きくなった男は睦の横をすり抜けた。
そして、ついでとばかりに同じく長くなった右腕で青年の顔をひっ叩いた。
……のだが、柘榴色に輝き始めた青年にはこう映っていた。
(あれ。このおっさん、ふざけてんのか?逃げるのか、逃げないのかどっちなんだよ。つーか、俺が捕まえないといけないわけ?あー、そりゃそうだな。それが俺の仕事……、いや、マニュアルには書いてなかったし。これはもう警察案件じゃあ……。まぁ、自ら手を差し出しているみたいだし、救いの手は握らなきゃ?的な……)
つまり睦はゴブリンのイメージと全く違う男の右手を難なく掴んでいた。
「良し。それじゃあ、睦君。その男をチェアに座らせなさい。」
「えぇ?結局診るんですか!」
「ぬぁ、てめぇ!何引っ張ってやがる。この!こいつ!離せ!離しやがれ‼」
男が右腕を捻られてもがいている、が睦は彼の様子に気が付いていない。
彼はただ手を掴んだだけ、だから「何を大袈裟に」と心の中で不快に思っている
そも、結局治療してもらえるのだから良かったではないか。
そして、これで途方もない額と思っていた一億円が支払われる。
つまり、自分は解放される。
「体を押さえつけて。」
「了解です、先生!」
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