第7話 歯科医院で働いています。
俺は歯が痛かったというだけで、地位も財産も全て失った。
勿論、理解はしているつもりだ。
ソレは元々俺のものではない。
初めから与えられていたもので、俺が誰かより優れていた訳ではない。
世界中を見渡したら、自分より不幸な人間はいくらでもいる。
——ただ、幸不幸とは上っているか下っているか、その加速度で決まる。
直滑降で滑り落ちた幸福度は、俺の体感では大不幸に違いない。
「お大事になさってくださいませませ!」
「おう。何かあったらすぐに来るよ!
「ダメですよー、菊池さん。病院はそういうところじゃないんで。はい、お大事に。」
美夜の苗字が変わっている。
俺のせいで彼女は、辻宮美夜は家族を失った。
彼女を意味不明な社会システムに巻き込んでしまったのだ。
先ほど大不幸と言ったが、やはり世の中の反感を買うのだろう。
だって俺には美夜がいる。
——それだけで、世界中の誰よりも幸せの筈だ。
「お嬢ちゃん、その歳でバイトって大変だね。おじさんが買ってあげようか?」
「いえ、私は欲しいものを持ってますから。何も要りません。」
「ほーら。渡辺さん。お会計済んでるんだから、帰りましょうねー。藤宮さんも片づけが残っているでしょ?」
俺の場合は自業自得、だから一番の被害者は美夜だ。
なのに、彼女は文句一つ言わずに俺の為に働いてくれる。
その事実が俺を苦しめる。
とても嬉しいはずなのに、すごく胸が苦しい。
◇
「ふぅ、これで終わりですね。美夜ちゃんが来て、患者さん倍くらいになったんじゃない?」
受付の古石ゆかりという女は、ガラス扉に閉院と書かれたプラスチック板を立てかけた。
オフィス街の歯科医院の閉院は基本的に早い。
ここから誰もいなくなるのだから、病院を開けても誰も来ない。
特に、ここ。影岩区の表通りは殆ど無人になる。
「全く。……ここはキャバクラじゃないっての。」
「レイラ先生がそれを言いますか!……元々、うちはレイラさん目当ての患者さんばかりだったじゃないですか。そうじゃなきゃ、こんな古臭いビルの歯医者になんて来ませんよ。」
元々は水無月レイラと受付兼アシスタントの古石ゆかりの二人でのんびりと歯科医院を営んでいたという話だ。
「ライラが人を雇ってくれって言った時は、そんな金どこにあるのよって思ったけど。この子、凄く可愛いし、凄く真面目。凄く愛想良いしで、この子の給料分の売り上げは余裕そうね。……それにしても予想外だわ。あの役目は私のだった筈なのに。今は美夜ちゃんみたいなの方が受けるのかしら」
「先生と客層が違うだけです。って、ここはキャバクラじゃないって言ったの先生じゃないですか。ここは歯科医院です。何、対抗心燃やしてんですか。それより……」
「そうね。美夜ちゃん、もう帰っていいわよ。」
「だ、大丈夫です!まだお片付けとかあるし、私全然平気ですから!」
この病院の今は昼モードで稼働中である。
分厚いカーテンのせいで、奥の診療室は全く見えない。
「……事情は聞かないけど、高校を辞めるんだよね?お金が必要なのは分かるけど、勉強も大事よ。早く帰りなさい。美夜ちゃんには勉強も頑張ってもらわないと妹に怒られちゃうわ。……ライラにきつく言われているのよ。」
ライラと同じ髪の色、同じ顔の女医。
彼女は溜息を吐きながら、少女の背中を押した。
「それじゃあ、お言葉に甘えます!明日もよろしくお願いします!」
ライラがどう動いたのか、想像がつかない。
美夜の両親に何を言ったのか、どういう手続きをすればこうなってしまうのか。
分かっているのは、二人が一億円返し切れば、あの契約書の効果がなくなること。
だから、彼女は元の生活に戻れるらしい。
俺もそうであれば良いが、残念ながらあれから両親と連絡が取れない。
神無月家との関係は修復不可能なのか、一億円の負債がなくなれば籍を戻してくれるのだろうか。
心の底から愛想を尽かされて、俺は神在月として生き続けるのかもしれない。
「睦君、ただいま!」
「おかえり、美夜。」
綺麗な笑顔、可愛い笑顔、世界一の彼女。
苗字がどうなろうが、二人の関係は変わらない。
レイラとライラ、二人の祖母はこの雑居ビルの家主だったらしい。
そして、二人が暮らすために空き部屋を一つ使わせてもらっている。
その方がお金が掛からないからか、逃げられないようにしているのか。
とはいえ、待遇は思ったよりも悪くはない。
「今日ね、今日ね。いっぱい褒められちゃった!あとね、患者さんにお茶を誘われちゃった。」
「そりゃ、美夜は可愛いからな。でも、気をつけろよ。前のバイトもそれが原因で逆にクビになったんじゃなかったか?」
驚くべきことに、ライラは水無月歯科のアシスタントとして彼女を雇った。
現在、美夜は法律の外の人間、劣悪な仕事を勧めるのかと思っていた。
それが一番恐れていた、——そしてそうしなかったことで、俺はライラの命令に背くことが出来なくなった。
成程、これが「飼われている」と言うのだと、心の隅っこに追いやられた意気地なしの俺がぼやいている。
「えー、今回は大丈夫よー。だって職場の人女の人しかいないし。それよりも——」
「んじゃ、そろそろ俺の仕事の時間だな。」
「うん!睦君、頑張ってね!」
「頑張る……、か。あの仕事に頑張る要素なんてあるのかな。」
「一億円、稼ぐんでしょ!お互い、頑張ろ!」
二人で過ごせる時間は四時間から五時間。
俺の仕事は夜12時に始まる。
そして、もう一つ驚くこと。
前提として俺は法律の外にいる。
けれども、俺の職場は彼女と同じ場所なのだ。
——つまり美夜の雇い主がレイラで、俺の雇い主は。
「お早うございます、ライラ先生。」
「ん。早いな。何度も言うが、患者はほとんど来ないぞ。」
患者はほとんど来ない、真夜中のオフィス街で歯医者を探す者は殆どいない。
けれど、彼女は真夜中に歯科医院を開けている。
俺がこの病院に辿り着けたのは、彼女が早めの出勤をしたからではなかった。
「確かに一週間、誰も来ていない。——ってか、なんでここでしか働けないんだよ。美夜の扱いは感謝しているけど、俺はもっとキツイ仕事でいい筈だ。このままで俺は一億稼げるのか?」
「仕方あるまいよ。そもそも就職活動をしたとして、君は就職活動をしたことがないだろう。そしても一つの質問だが、ここまで閑古鳥が鳴いていたら難しいだろうな。君のようなぼんぼんが来院しないかぎり。あぁ、君は元・ボンボンだったか。」
あの時も高慢な態度だったが、今は彼女が上司ということで、更に偉そうな言葉遣い。
「俺のような……、ってやっぱ詐欺じゃねぇか。一億なんて——」
「何度も言うが、詐欺ではないぞ。それより、今日は妙な気配がする。君、ちょっと窓から外を覗いてくれるか?」
明らかに詐欺だろ!と言おうとした俺は、彼女の瞳を見て言葉を詰まらせた。
やや険しい顔、いやそれよりも緋色の瞳に目を奪われてしまった。
彼女はそんな瞳の色だったか、と。
「窓からって、あぁそうか。俺がここに来るきっかけもそれだった。ここ、分かりにくいんだよなぁ。」
少なくとも、この日までの俺は、大人の罠に嵌められた可哀そうな高校生だった。
だが、この日の闖入者によって、俺の常識は脆くも崩れ去る。
「あ、もしかして歯医者さんを探してます?」
「え?男?なぁ、坊主。今、歯医者っつったか?お前、この辺で開いている歯医者を知っているのか?」
不遜な態度の男だった、とはいえこの男が言うように、俺がガキにしか見えなかったから、その時はそう思った。
「ここですよ。うちが歯科医院です。」
「あ?女医が仕切ってるっつー話だぜ。男がやってるなんて話は——」
「やっぱり患者さんですね?俺はアシスタントで先生は女性ですよ。」
普段の俺なら目を見ることさえ遠慮してしまう見た目の男。
けれど、ライラの話によると病院は診療拒否をしてはいけないらしい。
勿論、その患者に問題があれば別だが、俺は何も考えずにその男を迎え入れてしまった。
「こんばんは……いえ、お早うございます。当院の受診は初めてですか?」
「あ、あぁ。本当にここが水無月歯科だったんだな。」
「はい。えと、保険証はお持ちですか?」
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