第6話 彼女が居てくれるなら


 睦は美夜の手を取り、そして匿いながら啖呵を切った。

 歯の痛みは確かに引いたが、それが故に冷静に判断できる。

 ただ。それが警察頼みという、安易な考えだったのだけれども。

 果たして、それは。


「睦君。君はあの時はまだ起きていたわよね?金曜日の真夜中、この件に法律は関係ない、君の頼みの綱の警察様が仰っていたじゃない。つまり私が未成年の君に対して一億円を請求しても、法律は君を助けてくれないの。」

「そんなバカな理屈が通るか。法律はお前みたいなやつが蔓延らないように出来てるんだ。」

「ったく、面倒臭いガキね。もう、いいわ。君が支払う意思を持たないのははっきりと分かった。だから、さっさと帰ってくれない?君の彼女がこの契約書の連帯保証人の欄にサインをしてくれたの。つまり君はいてもいなくても関係ないってこと。」


 まるで意味が分からないが、美夜のことを言われただけでたじろいでしまう。


「美夜が連帯保証人になれるわけないだろ。美夜はまだ十五歳だ。」


 これでどうだとばかりに未成年であることを訴える。

 けれど、女医は肩を竦めるだけ、更には美夜も困った顔をするだけ。

 でも、負けてはダメ。逃げちゃダメだ、冷静になれと自分に言い聞かせながら、彼はあくまで論破への道を突き進もうとした。

 だが、次の言葉で思考不能に陥ってしまう。


「まだ分からないの?君に関して法は守ってくれないの。だからここにサインをした彼女に対しても法律は適用されない。もう、いい加減にしてくれない。私は美夜ちゃんを君から奪いたいんじゃないの。私は一億円払ってくれるなら、なんでもいいの。」


 未成年は保護されるべき、——勿論、納得いかないこともあるが、それでも今は自分たちが保護されるべき対象だ。

 こんな不合理は許されてはならない筈なのに。


「睦君。大丈夫。私のことは心配しないで。水無月さんから良さそうな仕事を教えて貰ったの。だから、私、頑張るね!」


 美夜の笑顔が考える力を失わせる。

 15歳の少女も法律の保護から外された……のかもしれない。

 もしかしたら良い仕事かもしれないが、流石にそれだけはあってはならない。


(どうして美夜が巻き込まれる?全部俺が蒔いた種だろ!)


 何もかもが分からない状況に、ついに女医に屈してしまう。


「美夜、それは絶対に良い仕事なんかじゃない。美夜は俺が守る。……分かった。俺が一億円払う。元々、俺のせいだからな。……あれ、俺のスマホ——、おい!このやぶ医者!俺のスマホをどこにやった?」

「失礼ね。流石にやぶじゃないでしょ?ちゃんと痛みは引いているんだから。っていうか、スマホ?ほんと、今の若者は困ったらスマホね。まぁ、好きにしたらいいわ。好きに出来たらだけれども。一億円、高校生、返し方でも検索してみたら?」


 意味不明な言葉を無視して、睦はスマホを覗き込んだ。


(なんだ、壊れてないじゃん。あの口ぶり。てっきり壊されてるんだと思った。……でも、これおかしくないか?俺のスマホなのは間違いないのに、ホーム画面が変わってる。あれ?通話履歴が無い。っていうか——)


 睦は女医を睨め付けて、通話ボタンを押してみる。

 ……問題ない、電波は繋がっている。


「くそ。初期化しやがったな。でも、それくらいどうにでもなる。親の電話番号くらい記憶している。ビルの一軒や二軒売れば、一億くらい——」


 そう、彼はなんだかんだ格好をつけながら、親頼みを考えていた。

 だが——


『お客様の都合により、お繋ぎできません』

「な?クソッ、それじゃあ、父さんの……、クソ!こっちも駄目だ。なら、家電。婆様んち、何番だっけ。……確か」

「頑張るのは良いけれど、間違っても警察に電話しないようにね。冗談ではなく、君の未来が終わってしまうわよ。大切な彼女に一億円の借金を残してね。」

「掛けねぇよ。えと、婆様の家。確か……」

『お客様の都合により、お繋ぎできません』

「またこれかよ!やっぱり細工しやがったな。最初から繋がらないようにしているんだな。こんなの意味ねぇし。あんま見掛けねぇけど、公衆電話さえあれば——」

「それは心外ね。そのスマホは壊れていないし、細工もされていない。試しに一番近くの人間に掛けてみなさい?彼女の番号くらい覚えているでしょ?」


 確かに美夜の番号は覚えている。

 最近はアドレス帳頼りに番号を忘れてしまうことも多いが、彼女は子供の頃から一度も番号を変えていないから、語呂合わせでずっと覚えている。

 ここで彼女に電話を掛けても意味はないのは知っている。

 それでも睦はスマホの電波を確かめるために彼女の電話番号をタップした。


『rrrr♪rrr♪rrrrr♪』


 すると、小気味の良いリズムが美夜の鞄から鳴り始めた。

 更には。


「睦君!無事、着信しました。隣にいるのに、なんか変な気分だね!」

『睦君!無事、着信しました。隣にいるのに、なんか変な気分だね!』


 嬉しそうな声が右と左から聞こえてくる。

 彼女はこの状況を楽しんでいるように見える。

 いや、彼女はいつだって楽しそうにしている。

 癒される笑顔だ。

 自慢の彼女なのだ。

 ただ、そんな彼女にこの女は一億稼げと言っている。


「Wi-Fi……ってわけでもなさそうだ。だのに、父さんと母さんには繋がらない?……日曜だからって、昼まで寝るって性格じゃないし。水無月だっけ。これはどういうことだ?俺が寝ている間に何をした?関係ないなんて言わせない。」


 だから、ここは自分で道を切り開かなければならない。

 けれど睦が更に睨むと、女医は肩を竦めてどちらともつかない顔をした。


「君の為を想って初期化したのに、こんなに睨まれるなんてね。はぁ……、それにしても、まだ気付かないの?」

「何が!」

「私が何かをしたのではなくて、君が何かをされたとか。例えばそうね、神無月家に縁を切られたとか。……最初に言ったじゃない。君の両親は悲しんでいるって。」


 またいい加減なことを!

 悲しんでいるならこそ、手を差し伸べてくれるのが親ではないのか!

 そう言おうとした。

 けれども、美夜は


「……陸君。そうなの。お義父様は言葉を失ってた。多分、後ろにお義母様がいらっしゃったと思う。えっと、その。多分お義母様は泣いてて……」

「……え?美夜、俺の父さんと話したのか?」

「うん。……昨日ね。睦君のスマホにご両親から電話が掛かってきたの。それで睦君が目を覚まさないから、私が出て——」

「——そこで電話を代わってもらったのよ。私には治療の経緯を説明する義務がある。当然よね?」


 自分の彼女がこの訳が分からない会話に加わることで、事態の深刻さに拍車がかかる。

 彼女が自分に嘘を吐くはずがない。

 何時だって、何だって彼女は全てを話してくれる。

 今日は誰に告白されたとか、どうしてあんな男と付き合っているのかと言われたとか、美夜はお金が目当てなのかと言われたとか、本当に耳の痛い話まで彼女は正直に話してくれる。


「どうかね、青少年。君の行動は縁を切られて当然だとは思わないか?だから、気を聞かせてスマホを初期化したというのにねぇ。君は一晩でこの子以外の全てを失ったわけだ。まぁ、親もそれくらいはと思ったのだろう。君名義の銀行口座は残しているらしいが。そこに一億円が入っているのではないかね?」


 耳につく話し方をする女医にムカつくこともなく、青少年は青い顔で首を横に振った。


「……俺の口座には大して入っていない。せいぜいが百万くらいだ。それでも高校生の貯金としてはそれなりだろうけどな。——そもそも、うち自体は裕福ではないんだ。父さんは普通の公務員だし、母さんは専業主婦だ。金持ちという噂は本当だが、あくまでそれは神無月の本家の話だ。勿論、俺の為に色々とお金を出してくれていたのは知っていたけど……」


 察しがつくと思うが、父親は婿養子だった。

 けれど、彼は神無月家の全てを嫌っていたように見えた。

 お金に名前は書いていない筈なのに、彼はお金の援助さえも拒んでいた。

 ただ、不思議と孫の養育費だけはしっかりと受け取っていたのだろう、それが矯正費用の出所だ。

 父は、金目的で母と結婚したと思われたくない、と言っていたが詳細を聞く前に縁を切られてしまった。

 睦は、そういう父の考えに影響を受けていたから、美夜とは慎ましく付き合っていた。


「成程、納得だ。君はご両親が許してくれると思っていたのか。なかなかに芳ばしい状況だ。」

「私!50万くらい貯金あります!」

「ん-、それじゃあ、君の彼氏君の貯金と合わせて、残り九千八百五十万円ってとこね。優しい優しい私は今のところ利子を請求しないつもりだからね。それより君はこの子に感謝しなくちゃいけないよ。彼女がいるから、君は独りぼっちじゃない、それだけで十分に幸せじゃないか。」


 どこが優しいものか、でも美夜は絶対に嘘を吐かない。

 いや、勝手に一億円の借金を抱えたバカ息子は勘当されて当たり前だろう。

 どんなに良心的な家庭でもお金が関わると碌なことにならない。

 

 ——だが、今まで陰口を言ったやつ、聞こえているか?

 

 美夜はここにいる。

 彼女はお金目的で自分と付き合っていたわけではない。

 それが今まさに証明されたんだ。


 少年は大切な宝物を再確認した。

 だから、彼は堂々と、女歯科医師に頭を下げた。


「俺、働きます。もう少しだけ待ってください。一億円返すまで、どれだけ掛かるか分からないけど、必ず——」

「その前に、これを渡さないとね。はい、これが君の新しいIDカード。無理言って一日で作って貰ったのよ、しかも週末に。有難く受け取りなさい。——神月君。」


 優しいと嘯く女医は、頭を下げた高校生にIDカードを突き付けた。

 そこに書かれていたのは、彼の新しい苗字と全然知らない住所だった。

 固めた筈の意志も、IDカードという形になった縁切りによって脆くも崩れ、彼は膝から崩れ落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る