第5話 一億円と幼馴染
神無月睦は困惑していた。
それは仕方のないこと、彼女は突然の二択を迫ったのだ。
歯を抜くか、抜かずに治療をするか、そして——
「さぁ、時間がないんでしょ?どっちのつもりでうちに来たの?」
因みに、女医の気配がガラリと変わった瞬間でもあった。
「保険外診療?……それって」
「さぁ、早く決めなさい。もうすぐあの警官が嘘をつかまされたと知って戻ってくるわ。私は立場上、彼らに君を引き渡さなければならない。けど、治療をするというのなら、上手く誤魔化してあげる。……っていうか、神無月君。君の答えは最初から決まっているでしょう?」
警察という言葉が、何故かここで出てくる。
補導されてしまう、という意味ではないことも言外に伝わってくる。
そして、彼女の話通りに、遠くの方からパトカーのサイレンの音が聞こえ始める。
「え、本当に警察が……?」
「当たり前でしょ。ほら、急いで。」
「そんな急に……」
——歯はアイドルの命だっけ?
——歯は健康の入り口だっけ?
——歯は……、っていうか今から前歯を抜かれる?
ふと浮かんだのは美夜の顔、ただ彼女ならどんな自分も受け入れてくれるだろう。
急かされた状況では、思考回路が静止してしまう。
だから、頭の中に色んな言葉が生まれては消える。
けれどやはり、「抜きたくない」と思ってしまうのが、健全な思考であろう。
例え、そこに全く別の意味が含まれていたとしても、だ。
「抜きたくありません。それにお金は心配ありません。……多分」
「ま、そうよね。それじゃあ、ここにサインして。ほら、指は動かせるでしょう?後からお金がないって言われないようにするの。」
両親からの言いつけの一つに、分からないものにサインはしてはいけない、印鑑を押してはいけない、それをする前には必ず相談をすること、というのがあった気がした。
ただ、突如始まったタイムリミットものに気持ちを持っていかれ、彼は握らされたペンで自分の名を殴り書きした。
「か、書きました。」
その直後、顔からタオルが剥がされて、契約書のサインを見せられる。
「……神無月睦、IDカードと同じね。えっと、自費治療で一億円ね。間違いなく承りました。」
「いちお……ぅ——⁉」
寒気が走る言葉が聞こえたのだし、それに対して反論しようとしたのだが、彼にはその先の言葉を言えなかった。
感情論ではなく、物理的に、いつの間にか放り込まれた開咬器により強制的に開けられてしまったからだった。
因みにそれは、拷問で使うようなエグイものではなく、歯科医院にある上下奥歯の間に挟み込む、普通の開咬器である。
ただ、今の睦にはそれが拷問器具にしか思えない。
そんな恐怖の中で、彼女ははっきりとこう言った。
——キュィィィィという高速回転するタービンの音と共に。
「
「ぅああああああああああああああ‼」
しずいえん治療と鼓膜が震えたが、脳には届かない。
彼女の言う、「痛くない」なんて、嘘っぱちだった。
犬歯から発せられる大激痛は、一度脳天に直撃してそこで折り返し、今度は足先まで電撃を走らせた。
成程、これが彼女の治療スタイル、この為に体を拘束されていたのかと。
そしてその時、『ガチャッ』と強引に扉が開かれた。
「おい、先生!この住所、適当言っただろ!それに防犯カメラも一人だけだ。てめぇ、また嘘を教えやがったな?」
「あら、お疲れ様。おかしいわね、私の虚言癖が再発しちゃったかしら——」
「やべ、もしかして俺……」
ただ、残念ながら睦は頭まで響く痛みのせいで、この会話の途中で意識を失ってしまう。
——Zzzzz
そして、そこで見た悪夢は歯を抜く異形のモノの姿ではなく、あの女医によって歯を削られるものへと変わっていた。
流石に気絶するほどの痛み、彼にとってはトラウマレベルの恐怖だったらしい。
もしかしたら歯を抜こうとする化け物が正しい存在で、彼女こそが悪魔のような存在だったのかもしれない。
……ただ、考える余裕もないほど彼は震えながら悪い夢を見続けた。
◇
——その翌日
彼は悪夢からようやく解放された。
「俺の歯を削るなぁぁ!……はっ!ここは?ケホケホ!ちょっとなにするんすか!」
盛大な寝言と共に起き上がった彼の鼻を悪臭が襲う。
(禁煙をうたいながら、タバコを吸う歯医者め……)
起きてすぐにタバコの煙を吹きかけられたら、どんな善人もイラっとするだろう。
あの窮屈な拘束具は外されているらしく、難なく上体を起こすことが出来た。
ただ、ここがどこだか分からない。
拘置所がどんなところかは知らないが、そういう場所にも見えない。
「あら。君の方から煙にぶつかって来たんでしょ?」
他人の顔を煙塗れにしておきながらも太々しい態度、この声は間違いなくあの女医だ。
窓の景色から大体の場所が想像でき、その景色は表通りのそれだったが、日が出ている時間帯の景色を知らないので、あの病院の別室かどうかさえ分からない。
「昼間なのに人が全然いない。」
「当たり前よ。今日は日曜日よ。」
そして、ここで漸く思い出すのは夏休みに入ったばかりだったという事実。
しかも、今日は日曜日だという。
だから、オフィス街は夜と変わらない静けさを孕んでいた。
けれど、そんなことよりも、学校が終わったのは金曜日である。
「嘘、だろ。俺は丸一日以上寝てたのか……」
「ほんと、迷惑な話よね。私に医療人としての矜持が雀の涙程度あったことに感謝なさい。」
「歯医者なら、医療人の矜持は持てよ!ま、俺が迷惑かけたのに違いないから悪いとは思っているけどさ。——それにしてもここは何処なんだ?」
「君ねぇ。ここが何処?とかどうでもいいの。目覚めたなら私の仕事は終わり。とっとと起きて、金を置いて帰ってくれる?今日は日曜日って言ったでしょ。休みなのよ、休み。」
彼の疑問は吐き捨てられ、その代わりに悪夢が現実だったことを呼び覚ます言葉を教えられた。
「えっとお金って?……お金、お金」
その言葉と二日前の出来事がなかなかリンクしない。
だが、少しずつ彼の顔色が蒼くなっていく。
「お金ってもしかして、一億円のこと?夢じゃなかったのか。……あれはあれですよね。ほら、田舎特有の百円を百万円って言ったりする……、ってことは十万円かな。成程、高い。流石保険外診療。確かに高額だけれど、それくらいなら——」
「なーに言ってんの。一億円は一億円よ。私が冗談を言ってるように見えた?——ってかさ。本当は知っていた癖に誤魔化すつもりだったのね。私の勘は的中ね、契約書を書かせて正解だったわね。」
女医は片手にタバコ、もう片方の手には一枚の紙をぶら下げていた。
そして、その紙には「治療費壱億園」の文字と「神無月睦」という自分のサインが殴り書かれていた。
あの契約書にサインをした、それだけで頭が真っ白になる。
「あれで一億円?そんな馬鹿な事が……、そうだ、警察!」
「あら、せっかく誤魔化してあげたのに警察に厄介になるの?ご両親が悲しむわよ。……いえ、既にご両親は悲しんでいるかしらね。」
「あんたのせいだろう!……ってか、あの時は俺に選択肢なんて——」
「ちゃんと示したわ。抜歯なら保険適用だったのに、君が自費診療を選択したの。……全く近頃のガキは。——もういいわ。お金を払うつもりがないなら、あの子にお願いするから。」
(明らかに説明不足の治療、警察沙汰にすればどうにかなるかもしれない。ただ、理由は分からないが、あの警察は間違いなく俺に用があったんだ。どういう絡繰りか分からないけど、追い払ってくれたのは事実。いや、一億円欲しさに追い払っただけ?——それより、今なんて?)
考え事をしている途中に言い放たれた女医の一言で、彼の背筋が強張った。
女医の良くない顔。
歯科医院の一室か分からないがタバコとエタノールの良くない臭い。
そして——
「私が睦君の代わりに支払います。えっと一億円……でしたよね?すぐには用意できないですけど。頑張って稼ぎます!」
一番大切な人の良くない発言。
「美夜!どうしてここに!」
「えへへ。実はあの後から見張ってたの。でも、パトカーが来て、私は路地裏に隠れてたの。ほら、いつも睦君が目立った行動はしないように言ってくれてたからだよ。そして無事、私は睦君の大ピンチに駆けつけることが出来たの。水無月先生に訳を話したら、快く色々教えてくれて。一億円の話もその時に——」
何故か彼女がここにいる。
そしてあろうことか、この女医はペラペラと自分の個人情報を喋ったのだ。
なんてことを!と、睦は非難の目を水無月に向けた。
「別にいいじゃない。美夜ちゃんの話を聞いてみたら、彼女は君の保護者みたいなものだったから。それに丸一日付きっきりだったのよ。羨ましい限りだわ。彼女が保護者なら君は庇護者。……庇護者が支払いを拒む場合、保護者が立て替えるのは常識でしょ?それに彼女の方が……何かと稼げそうじゃない?」
女が女を厭らしい目で見る、嘗め回すように下から上に。
「美夜に手を出すな!それに美夜は保護者じゃない!——美夜は俺の大切な
睦はあの日の夜にミスを犯した。
彼氏である睦の目から見ても、彼女である美夜は変わっている。
彼女はいつも自分を見てくれる。
どんな時もどんな所でも、いつでも見守っていてくれる。
親孝行だった少女が、自分の為に両親の人生を翻弄したくらいだ。
その行為も愛らしく思っていたが、今回はそれが裏目に出てしまった。
——ただ、彼の憤りを鼻で笑いながら、女医はいつの間にか掛けていた眼鏡に指をあてた。
「面白いことを言うのね、君。いえ、それとも本当に一億円持っていないのかしら?住所もIDで確認したんだから、君があの神無月ということは分かっているのよ。……けれど、私は君の敵ではない。それに君の気持ちは分からなくはない。ま、この件に親の反対はつきものだもの。更には彼女にも頼りたくない。ま、これも分からなくはないわ。けれど、それならどうやって一億用意するの?」
曖昧模糊というより、意味不明な同情論。
いや、一億円という法外な金額が指し示すのは、あまりにも馬鹿げた詐欺行為だ。
だから、彼は彼女の前だからこそ、強気になれる。
「用意する訳ないだろ。俺は悪いことをしていない。警察に事情を話せば全部解決する。」
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