第2話 真夜中の歯科医院探し

『キュイイイイイン‼』


 ——睦は美夜と共に歯科医院に向かった筈なのだが、


「……なんか、痛みが治まった気がする。」

「睦君?歯医者さん、目の前だよ?」

「いや。なんでかな。本当に痛くないんだよ。ほら、やっぱりこういうのって痛くないと説明が難しいだろ?」


 恐らく、いや間違いなく痛みが無くなったのは気のせい。

 単に、自分の痛覚があの音にビビッて音を上げただけだろうと睦は思っている。


「そっか。それじゃ、仕方ないね。痛くなったらまた来よう?睦君が大丈夫なら、私も嬉しい!」


 だが、美夜は恐ろしいまでに睦に甘い。

 そしてそれを分かっていて、甘えてしまう自分がいる。


 甘えん坊になった彼は、高校二年の夏に歯科医院特有の高周波の音にビビッて、踵を返してしまった。

 そこに歯科医院に行きたくないだけという、情けない心の声があるのは確かだ。

 それにどうしても想像してしまう。

 歯を削る、針を刺される等、中世では拷問で活躍したこと全てがあの箱の中に詰まっている。


「うん。あれだ。俺の究極とされる免疫に頑張ってもらおう。ほら、これは風邪と同じだって。勝手に治ってくれるに決まってる。流石は人間、流石は生命だ。」


 いい加減な屁理屈をこねて、少年と呼ぶには育ちすぎた青年は歯科医院に背を向けて歩き始めた。

 そして、その様子を暖かい目で見守ってくれる彼女。

 けれど、二人の交際にはルールである。


「それじゃあ、私、こっちだから。」


 高校二年生と高校一年生のカップル。

 しかも、幼児時代から好き同士の二人。


「んじゃあ、また学校でな。」

「ちゃんと食べなきゃ駄目よ。……でも、歯が痛いのよね。ゼリーみたいなのを買って帰ったらどうかな?」


 二人はあくまで健全な交際を続けている。

 その理由は睦の、神無月家の家柄にある。


「コンビニか。ありがとな、美夜。」


 彼は彼女の言いつけを守って、コンビニでゼリー状の栄養補給品を買い込み、誰も住んでいない自宅へと向かう。

 彼は一人暮らしをしている。

 理由は最近、伯父が急死したから。

 そして、それがそのまま彼と彼女を健全交際足らしめた理由にも繋がる。


「ただいまー。って、誰もいないんだっけか。子供のころから住んでた家だけど、誰もいないって、どうにも慣れないな。」


 両親は高校二年生の息子を残して、五県以上離れた母の実家にいる。

 母の兄が所有していた、いくつかの土地と建物の相続が一気に母親の所に舞い込んだのだ。

 その相続税の計算やら、賃貸人の把握やら、様々な手続きが今も終わらず、猫の手も借りたい状況らしい。


「元々は婆様が所有してたんだっけ。父さんが嫌がって相続を蹴ったのに、白夜びゃくや伯父さんが独り身のまま突然死……だっけ。結局、母さんが相続することになったんだっけ。不労所得ってやつが転がり込んだってか。……人生って分からないものだなぁ。」


 白夜という伯父さんに彼は会ったことがない。

 声も顔も、何なら存在だって知らなかったのだから、親戚と言ってもこの程度の感情しか抱けない。

 因みに、これら一連の流れを先日聞かされたばかりなので、実はまだよく分かっていない。

 ただ、母の家系が大金持ちということだけは昔から知っていた。


「んー、バナナ味にしておくべきだったかなぁ。」


 さっそくゼリーを吸い出す高校生男児は、考えている側から伯父のことを忘れている。

 そもそも神無月家が資産家という情報は数県離れたこっちでも知る人は知っていた。

 有名私立高校にでも通っていれば、その程度かと暈せたかもしれなかったが、お金持ちばかりが通う私立高校には、美夜が入学できない。

 とはいえ、彼は彼女である美夜ほどは勉強をしてこなかったから、彼が美夜が通う筈だった高校に途中入学はできない。

 いやいや、努力をすれば入学可能だったかもしれないが、美夜の好意に甘えてしまったという方が正解である。


「あー、辛い……。遠くの親には頼れないし、俺ももう17歳だなぁ。」


 一人暮らし最高!と思っていた時期もありました、と青年は心の中で呟いていた。

 何もなければ、この時期の独り暮らしは自由の獲得であり、最高の時代だろう。


「……とはいえ、美夜が金目的と思われるのも嫌だったわけで。」


 爽やかな交際を続けていた理由が正にそれだった。

 これはこれでかなり短絡的である。

 交際している時点で、少なからずそう思われているに違いない。

 そんな中、突然一人暮らしになってしまった自分がいるわけで。


「でも、美夜は誰かの目とか全然気にしてないよな。なら、俺がちゃんとしなきゃ……な」


 彼女とは健全な関係でありたいから、少しの油断もあってはならない。

 少なくとも二人が高校を卒業するまでは清き交際をする、それが彼のケジメの付け方だった。


「今日も見られていたなぁ。……ってか、痛みが出る前にさっさと寝よう。でも、一応これは飲んでおくか。」


 高校三年生の青年は「ロ」のつく鎮痛剤を飲んで、早めの就寝をした。

 あの甘酸っぱい思い出の夢を見たいと願って寝た彼だが、残念ながら悪夢と共に目を覚ました。


「いひゃい!いひゃい!いひゃい!いひゃい‼まぢで痛い‼」


 異形の生物が彼の歯を抜こうとする夢だった。

 成程、夢の中でも痛みを感じたのは、現実に痛みを感じていたからである。

 そも、夜に痛むことは知っていた筈なのに、愚かにも夜中に奇声を上げて飛び起きてしまったのだ。

 

「流石に痛いんだが‼やべ、救急車……かな、歯痛で?……やっぱだめかな」


 実際、歯痛で救急車を呼ぶ者もいるだろう。

 ただ、彼の中の『119』のイメージはもっと別のものだった、——例えば転げ落ちたとか、内臓のどこかが痛いとか、倒れたとか。


(だー、わっかんねぇ!……とにかく、歯医者を見つけないと!)


 とにかく、救急車は呼んではいけないと彼は独断した。

 ただ、他人に迷惑をかけてはならないという大義を纏った彼は、今から外に出て、歯科医院を探すという愚策中の愚策を選び取ってしまう。


「唸ってても始まらねぇ!」


 住宅街の中、自宅で歯科医院を営む歯科医師がいれば、助かったかもしれない。

 勿論、夜中にインターホンを鬼連打される歯科医師の方は助かっていないのだが。

 けれど、彼は踏み出す一歩から間違えてしまった。

 彼が住む高級住宅地は、自宅で営業をしてはいけないという暗黙の了解が存在する。

 だから、彼の記憶の映像に、歯科医院は見当たらない。


(美夜と別れた場所。表通りに行けば、歯医者たくさんあるし、どっかは夜までやってるだろう)


 歯の痛みは拷問と変わらない、だから彼が家を飛び出したのは仕方がない。

 ただ、すぐ側に歯科医院がないことも彼は知っていた筈だった。

 両親が住んでいれば適切な判断が出来たに違いないが、今は一人きりの彼は真夜中に表通りまで走るという暴挙に出てしまった。

 そして痛みで朦朧とした中、今更ながら歯科医院を探す為にスマホを取り出してみる。


(えと、歯医者、歯医者。マップで検索……、——ってか、午前二時?俺が布団に飛び込んだのって八時くらいだから……。俺、実は五時間以上寝てた?あの悪夢を五時間見てたのか?……ってそんなことはどうでもいい。午前二時ってこれじゃあ開院を待つ方が早いじゃん!)


 午前二時なら、流石に救急病院を探すしかない。

 ただ、やはり冷静ではない彼にその考えはなかった。

 スマホで夜中、歯が痛いで検索する手もあったろうが、気が付けばとんでもない道を走ってしまった。

 その理由は、疼痛に波があったからだ。


「うーん。今はあんまり痛くないんだけど。……ここまで来て引き返すのもなぁ」


 いや、もしかすると友人の忠告通りに脳まで感染したのかもしれない。

 ただ、全く痛くないことはないので、開院している歯科医院があればすぐにでも飛び込みたい。


「なんだ、開いてないじゃん。だったら看板つけるなよ。無駄遣いしやがって……」


 明かりが灯った歯科医院の看板を親の仇のように睨め付け、彼は表通りを彷徨い歩いた。

 そして、「何かは高いところが好き」を巨大な交差点に架かる陸橋の上で演じてみた、——その時だった。


 彼はビルの隙間、路地裏に淡く光る看板と窓、さらにはその窓に映る人影をついには見つけることが出来た。


「ん。あそこ、部屋に明かりが付いてない?……そうか。もう三時過ぎだ。早起きの先生が開院準備をしているに違いない‼」

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