第3話 真夜中の患者さん
こんな時間に開院準備をするだろうか、そんな疑問は頭にはなかった。
痛みで思考がおかしくなっていることにも気付かず、夜光虫のように光を求めた。
一応、彼の思考をフォローするならば、出勤前に立ち寄れるように朝早くに開院する歯科医院も少なくない。
四つ辻全てに歯科医院を見つけられる世の中なのだから、それも一つの経営戦略だろう。
だが、流石に都会のオフィス街だろうと、午前三時はゴーストタウンと化す。
「頼む。ここまで来たら引き下がれないんだ。」
謎の強迫観念も働きかけ、睦は「デンタルクリニック」という文字が浮かび上がる歯科医院を目指して歩き続けた。
そして、普段では絶対に立ち寄らない古くて汚いビルに到着するのだ。
「確か、ここの三階くらい……」
見上げた先にちらりと映る人影は違和感しか感じないものだった。
(女の人?……マスクをしているからはっきりは言えないけれど、恐らくはかなりの美人先生だ。歯医者っぽくない格好だけど……。白衣だから歯医者さんに決まってる‼)
歯医者さん、と言えばケーシー型と呼ばれる動きやすい白衣を着用していそうだが、紫紺の髪色の女は内科医もしくは研究者のような長めの白衣を着ていた。
——シャッ‼
「な!」
睦が眺めていると、カーテンを閉められてしまった。
だが、眼鏡・マスク美人なのは疑いようもない。
目が合ったからカーテンを閉められた、つまりは敬遠されたのだが、彼にも意地があった。
彼は階段を一気に駆け上がり、心拍数を一気に上げる。
「痛っ!やっぱ階段上りはきつい。あー、ズキズキする。……でも、学校の帰りに美夜にも言った通り、痛みがあった方が緊急性を理解してくれる筈だ。ちょっと乱暴かもしれないけど……、——あの!お願いします。痛いんです!すごーく痛いんです!」
鼻にツンとくる歯科医院特有の匂いが病院の外にも拘らず漂ってくる。
中に白衣の女性がいるのは確認済み、これは正しく救済ルート——の筈なのだ。
だから、粗野と知りながら彼は拳でドンドンとドアを叩いてアピールをする。
ガラス製のドアだから思い切りは叩けないし、ロールスクリーンのせいで少ししか院内が見えない。
でも、今も部屋の明かりはついていて、中には人の気配がする。
雑居ビルの他の窓は真っ暗だったから、ここで間違いはないのだ。
そして。
——ガチャ
「ちょっと五月蠅いんだけど?今、何時かも分からないの?」
「先生!歯が痛くて痛くて堪らないんです!お願いします、俺の歯を診てください‼」
女は明らかに嫌そうな顔をしていたが、現在進行形の疼痛がソレを無視して全身全霊の土下座を敢行させる。
男子高校生がお願いします、お願いしますと何度も頭を下げていると、はぁと空気が漏れる音がして、ロング型白衣の女が言った。
「はぁ、ちょっと何?これをあげるからさっさと帰りなさい。ご両親も——」
「それ、ロキなんとかですよね。それ、全然効かなかったんです!今も痛いんです!父と母は遠方に居て、俺は一人暮らしっす!どうにかしてください!」
青年は彼女が手に取った錠剤を食い気味に否定し、自分のプライベートを女医にさらけ出す。
すると、女はさらに顔を顰めて、分かりやすく溜め息を吐いた。
そこで気が付いたのは、彼女の溜め息に煙が混じっていること。
「あのねぇ、時間外診療だし、治療費が高くつくわよ。今日は大人しく帰って、明日近所の歯医者さんに診てもらいなさい。今からならたった数時間じゃない。」
「今、診てください!頭が割れそうなんです。頭に虫歯菌が回って、俺は死ぬかもしれないんす!」
確かにここに来て痛みが増している。
それは気持ちでどうにかできるものではなかった。
声を張り上げたからかもしれないし、階段を駆け上がったからかもしれない。
それよりも何よりも、せっかく歯科医院に辿り着けたのにドラッグストアでも買える鎮痛剤では手を打てない。
「あっそ。……レイラに気を使って換気するんじゃなかった。——君、保険証は持ってるんでしょうね?無保険じゃ、本当に高くつくわよ?」
「レイ……ラって?……じゃなくて、大丈夫っす。『こんなこともあろうかと』セットの中に保険証も入ってるんです!」
「こんなこともあろうかとセットって……、ったくガキは」
彼の両親が用意していた「緊急用ボックス」をそのまま鞄に詰め込んでいる。
因みに、その中に鎮痛剤が入っていたので健康保険証も確認済みである。
だから彼はそのボックスを取り出して、彼女の目の前で鞄を漁った。
すると女がその中に手を入れて、サッと何かを取り出した。
「ふーん。神無月睦君ね。保険証だけじゃなくて、IDカードも作ってるじゃない。これで一応、身分証明は出来たわね。……ま、いいわ。どうせ暇をしていたし、応急処置で良ければ診てあげる。」
「よろしくお願いします!」
「いちいち煩いわね。頭が痛くなるじゃない。」
女医の暴言は彼の耳には届かなかった。
これで地獄のような痛みから解放されると分かるや否や、英雄の帰還とばかりに威風堂々と歯科医院の中を歩く。
中に入ると、存外古くなかったのだから、初めての歯科医院でも安心感が増していく。
リノベーションか、イノベーションか、これは当たりを引いたかもしれない。
ただ、彼がホッと胸を撫でおろしていると、紫の髪の女医がこう言った。
「あぁ、違う違う。その診療台じゃなくて、奥の部屋、奥の診療台ね。」
「奥?」
彼女はまっさらなカルテを鷹揚に掲げた。
その向こうには時空の歪みが発生したと疑うほどの昭和の古臭い歯科医院風景が広がっていた。
青年は痛みで朦朧としているさなかであるが、その異様さにたじろいでしまう。
だが、これはリフォーム資金が枯渇したのだろうと、脳内で自分に言い聞かせながら恐る恐る診療台に向かう。
「そのまま座って。んで、手はここ。ちょっと待ってなさい。」
——カチャリ
ん?これは如何に?
そこで青年は猛烈な違和感を覚えた。
そも、どうして右手首に金属が当たるのか。
どうして左手首にも同様の感触が伝わってくるのか。
「……え?歯医者さんってこんなんだっけ?」
「
そんな業界だっけ?
疑問符が頭に浮かぶが、もう遅い。
彼は両手を固定されて、逃げることが出来ない。
だから、そういうものだと、心に言い聞かせて一番重要なお願いをすることにした。
「そ、そうですよね。それより、あの……、痛くしないでください。」
「大丈夫よ。痛くないって評判なんだから。顔にタオル掛けるけど、その前にどういう状況か診せてもらおうかしら。はい、あーん。」
定番文句だろうと、些か興奮を覚える言葉。
無論、拍動痛のコンマ数秒だけのものだったが。
「……あら。てっきり親知らずかと思ったけれど、綺麗に生えているわね。君、確か右頬を押さえていたのだけれど、どの歯が痛むのか分かる?」
その瞬間、青年の右肩が飛び上がった。
反射的に右手で場所を示そうとしたが、手首を固定されていたからそうなってしまった。
だから仕方なく、舌を使ってその歯を示す。
「ここれふ。右の前歯っす。そこ、前から磨きにくくて。」
「右の前歯で磨きにくい……。13番のことかしら。えっと、糸切り歯のことね。君、矯正を途中で投げ出したタイプでしょ?」
「……へ?えと、そうです。途中で止めちゃって。」
「先端が少し欠けているけれど、これが原因かしら。痛みは歯髄炎っぽいんだけど、……なんていうか
そこで漸く、ふわりと青年の上にタオルが掛けられる。
口のまわりだけタオル生地の感触がないので、口元だけ穴が開いているのだと分かる。
視界が塞がれていることが、嬉しいやら悲しいやら。
ただ、目隠しをされている状態でも、「麻酔」と聞かされれば、やはり心臓が飛び跳ねる。
麻酔が痛い。
だって、それは注射と同義。
かろうじて記憶に残っているのは矯正治療中に紹介された歯医者さんでの出来事だった。
どうしても抜けない乳歯を抜いてもらった時の悍ましい思い出。
「ちゅ、注射⁉ひっ……」
あの時の恐怖心が今頃になって思い出される。
だから反射的に顔を逸らそうとしたが、彼の頬に柔らかな手が添えられて動きを封じられた。
「大丈夫。痛くないっていったでしょ?口を開けなさい。注射はしないから。」
柔らかい手の感触に、肩の力も抜けていく。
ただ、その言葉の内容の方が気になった。
(注射はしない?……って、絶対に嘘!)
大人は嘘を吐く。
だから高校生にそんな嘘は通用しない。
だから彼は咄嗟に口を噤んだのだが、唇がおそらくは指で無理やり広げられ、痛みのある右上犬歯の歯茎周りを何かでなぞられた。
——すると、彼の歯の痛みが魔法のように消えていく。
(あれ?だんだん、感覚が……。——あ、そうか。クラスの誰かが言ってたっけ。麻酔をする前に歯茎に何かを塗るって。それってこんなに効くのか。最近の歯医者は進んでいるんだな。)
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