俺は歯医者で働いている。いや、そんなことより自慢の幼馴染が俺のこと好きすぎ!

綿木絹

何も知らない青年の章

第1話 月がキレイ

「むつ、お月さんがきれいじゃね。」


 ほんのりと青みがかった黒髪のあどけない少女は、月を見ながらにっこりと歯を見せた。

 永久歯は一本も生えていないが、月の光を受けたのかキラキラと輝いて見えた。


「あ、あぁ。まんまる……だな。」


 それに答えたのは、少女同様に子供の歯しか揃っていない少年だった。

 彼は月を見ず、月光に照らされた幼女なりに整った顔立ちを、ただ見つめていた。


「ねぇ、次はいつ帰ってくるん?」

「分からないよ。父さんが忙しんだとさ。ここまですげぇ時間がかかるんだぜ。」


 少年の口元も月光を反射させていた。

 彼の場合は、歯科矯正装置による人工的な金属の反射だったけれども。


「むつのお父ちゃんってこの町が嫌いなんかなぁ。うちはもっとむつと一緒におりたいのに……」

「おれには分からないよ。あんま帰りたくないのはなんとなく分かるけど。」

「えー。ほいじゃ、次はいつ来るん?うちは……、——あ!むつ、ごめん……」


 少女は目を見開いて、急いで両手を自分の口へと持ちあげた。

 けれど、そばかすがやや目立つ少年は肩を竦ませて笑って見せた。


「お婆様とはあんまり話したことないから、あんまり気にしなくていいよ。俺だって美夜と一緒に学校に行きたいけど、俺の小遣いじゃここへは来れなくて。」


 少年の方が一つ年上だった。

 それにかなり前に都会に引っ越して、そこで小学校受験をしたからか、少女より考え方も精神年齢もずっと上だった。

 そして、半べそで謝る少女のことが大好きだった。


「美夜、俺は大丈夫だから泣かないで。俺が働けるようになったらいつでも——」

「うち、むつのこと大好きじゃけ、待てんよぉ。」


 少女は感情に任せて、今の気持ちをはっきりと言った。

 けれど、少年はそれで顔が真っ赤になった。


「お、俺も……。美夜のことが好きだ。」


 ただ、この日ばかりは違った。

 満月が助けてくれたのか、それともこれから暫くは戻ることがないと知っていたからか。

 彼がここに帰ってくるのは、親戚の葬式の時だけ。

 そして、今回は四人の祖父母の最期の一人の葬式だった。


「ほんと?」「本当だよ。」「じゃあ、約束!」「約束って、指切り?」「指切りはもうしたもん!」「んじゃあ、何をすれば信じてくれる?」


 その夜は男児の祖母の通夜だった。

 そんな時に、美夜は睦と約束をした。

 それは——


「んーとね、んーとね、んーとね。……けっこんのやくそく‼」

「結婚⁉……分かった。じゃあ、結婚の約束のキスでどうだ!しかも口と口とのキスだ。」

「キキキ、キス⁉……キスはうち、は、恥ずかしいけん。」

「えー、結婚は大人がすることだろー。言っとくけど、俺は本気だ。」

「ほんと?ほいじゃあ、うち、キスする!」

「それじゃあ美夜、目を瞑れ。」

「…………痛っ!むつがみよの唇噛んだぁ」

「ゴメン!矯正装置が邪魔で……」

「なんか、変な味がするぅ。」

「俺も美夜の血の味がする。」


 ——ませた男児と女児の不器用な接吻だった。


    ◇


 口の中が鉄臭い。

 それに脳を焼き尽くすほどの痛み。


「——だはっ!んー、痛いぃぃぃ‼」

「神無月、僕の授業を聞いていないから罰が当たったな。どうせ下らん夢でも見たんだろう?仕方ないからお前だけ夏休みの宿題を追加しよう。56頁の問1から156頁の問12までだ、分かったな?」


 数学の教師が半眼を向けてそう言ったが、神無月睦かんなづきむつは悶え苦しんでいた。

 黒板を見ても、天井を見ても、窓の外を見ても、目を開けても、目を閉じても……、ずっと。


「痛いぃぃぃぃ。マジで痛いぃぃぃぃ。」


 少年はその痛みに空を仰いだ、いや見えたのは天井だけれども。


「むつ。早く、歯医者行きなよ。早くしないと虫歯で死んじゃうわよ。」

「歯医者に行った方が死ぬわ!頑張れ、俺の免疫!ってか、虫歯を死ぬわけないだろ?‼ってか、しゃべりかけるな。それだけで頭が割れそうだ……」


 クラスメイトの二階堂鈴にかいどうすずは頬杖をついて、呆れた顔で隣に座っている。

 そして反対側の隣に座っているのは長谷部雄介はせべゆうすけ、二人とも中学からの友人だ。


「——神無月。それがそうでもないんだよ。虫歯を放っておくと根っこにばい菌が溜まる。んで、それを放っておくと骨にばい菌が感染して骨髄炎になることがある。んで、更に放っておくと、脳や心臓に虫歯菌が達する。マジでガチで虫歯で死ぬケースってある。」

「……え?俺、今頭が痛いんだど?これは脳に虫歯菌が⁉俺……、死ぬのか?」

「雄介は放っておけばって言っているの。……でも、あんた結構前から歯が痛いって言ってるわよね。それ、ガチでマジでやばいから今日の帰りにでも歯医者に行きなさいよ。」


 寒気のする話を聞いた睦は、机に臥せて痛みを忘れる努力をする。

 痛みを放置していたのは、この歯痛が寝ている時にしか起きなかったからだ。

 だから、今日も授業中に居眠りをしていた。

 今までは授業中の居眠りでは痛くなかったのだが、ここに来て虫歯が進行したのかもしれない。


「これは……あれか?主人公の俺は虫歯で死んで異世界に飛ばされるパターン……か?」

「何、馬鹿言ってんの。アニメ見過ぎよ。」

「もしくはラノベ読みすぎ。虫歯で死んだ主人公の転生もの……、あんまり面白くなさそうだね。」


 そう、残念ながら。

 ここでは彼が見事に死んで、エルフやドワーフが跋扈する異世界に飛ばされる……ということはない。


「ってか、私から美夜ちゃんに言っておこうかしら。」

「二階堂、どうして俺たちにそこまでする義務がある。こいつは虫歯と共に爆ぜるべきだ。」


 さらに残念なお知らせである。

 いや、主人公の彼にとっては喜ばしいことだが、あの夢はよくある幼い日の古き良き思い出でも、大きな木の下で告白するべきフラグでもない。


「そうね。なんでこんな奴を幼馴染が追いかけてくるのよ。しかも、あんな可愛くて良い子‼今すぐ爆発しなさい、これは命令よ。」

「お前ら、さっきから好き勝手言いやがって。俺と美夜は運命の赤い糸で結ばれてんだよ。」


 辻宮美夜つじみやみよは中学校受験をして、見事に都会で有名な難関学校に入学した。

 その努力の全ては、『睦の近くにいたい』という思いからだ。

 そして、彼女のその努力は両親に引っ越しの決意をさせるほどに健気だった。

 ただ、その後の行動は周囲を唖然とさせるものだった。

 彼女の目的は全ては睦の為だ。

 だから、彼女はその名門中学から平凡な公立高校へ転入を希望した。

 わざわざ中高一貫だった学校を蹴ってまで、彼女は睦を求めたのだから、両親も唖然としたことだろう。

 つまり彼女は今、同じ高校に通っている。


「うーん。どうしてだ。今まで忘れていたのに、久しぶりにあの夜の夢を見た。」

「あ?何言ってんだよ。お前が金持ちだからだ。俺だって金がありゃなぁ。」

「雄介、何言ってんのよ。美夜ちゃんはお金なんかに興味ないわよ。だから、意味分かんないって言ってんじゃん。てか、あの夢って何よ。あんた、子供のころの思い出なんもないって言ってたじゃん。」

「いや、急に思い出したんだよ。痛みのせいかもしれないけどさ。……えっと、婆様の通夜の夜に——」


 そこで突然、ドドドドと床が蹴られる音がした。

 そして。


「む、む、む、睦君‼あ、あ、あ、その……。その話は恥ずかしいから……」

「あ、美夜ちゃんだぁ。相変わらず可愛くて眩しいわ。あ、そうだ、ちょうどいい。美夜ちゃん、こいつを歯医者に連れて行ってよ。歯が爆発しそうなんだって。」

「神無月!お前だけ爆ぜろ。全く、羨ましい限りだ。」

「うるせぇって!でっかい声は頭に響くからやめてくれ。」

「あ、ご、ご、ごめん。睦君。私、声、大きかったかな?」

「違う違う!美夜の声は全然頭に響かない!ってわけで、また夏休み明けな。美夜、とっとと帰ろうぜ。」

「うん!」


 高校二年生の男子と高校一年生の女子のカップルは、周囲から険しい目を向けられながらも共に下校した。

 これから始まる夏休みに彼らが臨時バイトを強いられるとも知らずに。

 

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