最終章 8-2


 男児の誕生を感知した私は、全ての予定、工程を破棄し、二度と戻るまいと決めていた王都へと帰還した。


 表向きには私は神の御許に召されたことになっているため、密かにクラウディと連絡を取り合い、屋敷の敷地の一角に設けられた別邸へと身を潜めた。


 そこはかつて、私が身重の妊婦にふんして現れたときに建立こんりゅうされたものである。近年は五歳の姿で現れるようにしているため、殆ど使用されることはなかったが、手入れだけは欠かさずにされており、隠れて生活するには最適だった。


 およそ半年ぶりに再会したクラウディは、出産してまだ日が浅くやつれてはいたが、いつもと変わらぬ柔らかな微笑に、しかし母としてのたくましさを漂わせながら、私を迎え入れてくれた。


 当面の間、私はここから彼を監視することにした。今までの男児たちは、早ければ三歳頃、遅くとも五歳までにはくうの力に目覚め、そして命を奪われていった。今回はいつに成るか、或いは成らないのか、それを見極める必要があった。


 始めの内は、兆しは見られなかった。彼は健やかに成長し、魔法の適性が極端にないことを除けば、何処どこにでもいる普通の子どもであった。しかし、生誕から四年となる日を迎えたとき、唐突に異変は現れた。


 屋敷で催されたささやかな祝宴の最中、第二子の出産を間近に控えた母親の目の前で、彼は昏倒するように意識を失った。にわかに沸き起こる喧騒、つんざくような彼女の悲鳴を聴きながら、私は自身の不明を悔やんだ。


 幸いにして、そのときは私の回復魔法により彼は一命を取り留めた。マイナにより奪われた生命力を補填することで、翌朝には何事もなかったかのように起き上がり、周囲を安息させていた。


 しかし、私には分かっていた。くうの力は確実に彼の身体を蝕んでいる。最早、一刻の猶予もない。私は例の策を実行に移すことを決意した。


 その日、私はこれまでそうであったように、五歳の姿で彼の前に現れた。彼は無邪気に笑いながら手を差し出してきたが、私はそれを取るのを躊躇ためらった。


 空の力で生命力を奪われてしまうのではないか、私もお父様のように消滅させられてしまうのではないか、そんな恐怖が過ぎったのだ。


 彼は少しだけ表情を曇らせたが、次には構わず私の手を握った。その瞬間、頭の中に懐かしい記憶が洪水のように溢れ出してきた。いつかお姉ちゃんと手を繋いで歩いた、あの遠い日の思い出が蘇ってきたのだ。


 何故なのか、その理由は分からない。しかし、彼もまた同様であったらしく、私たちはしばしの間、時が経つのも忘れて互いから目を離せずにいた。


 それから、彼に屋敷の中を案内された。もう誰よりも永く棲んでいた場所であり、知らぬことなど何もなかったはずだが、彼と歩むそこは何処か新鮮に感じられた。


 屋敷の全てを回り終えた後、大事を取って彼を休ませることにした。彼は尚も遊び足りないようだったが、母親からこっぴどく叱られると、大人しく自室の寝台へと身体を横たえた。


 彼女が部屋を出ていく瞬間、私と目が合った。その眼差しからは全てを覚悟していることが窺えた。


 私はこの後、何をするのかを彼女には教えていない。それを話してしまうと本来の効果が損なわれ、折角の策が水泡に帰してしまう恐れがあるからだ。


 しかし、私が何かをすることを彼女も確信しているのだろう。これが成功するのか、或いは成功しても良いものなのか、本当のところは分からない。それでも、私は彼女の信頼に応えねばならない。


 部屋に残された私。彼と二人きりの空間。私はおもむろに寝台へと近付くと、起き上がろうとする彼の肩を押し留め、震える心を懸命に抱き隠しながらその言葉を告げた。


「あなたはこのことを忘れてしまうけど……もしも、思い出したときには、必ず私に会いに来てほしい」


 私はそっと瞳を閉じると、彼と口付けを交わした。他者にこの魔法を掛けるにはこうするしかない。だから……そう、仕方がないことなのだ。


 それに実を言うと、これが始めてのことでもない。でも、何故か胸の鼓動が一段と高鳴るのを感じていた。


 胡蝶邯鄲ヴィニャーナ、それは共生する生きた幻。外見のみならず内面にまで作用し、術者を含めた周囲の記憶や認識すらも改変させる。


 だから、彼の存在をそのうちへと隠し、空の力の根源たるアーカーシャの影響を弱めるのだ。それは世界を騙し、運命をあざむく恐るべき所業。その汚名も代償も甘んじて受け入れよう。


 その日から彼は、レイネリア=レイ=ホーリーデイは、女の子になった。しかし、私にも予見できないことはある。魔法の行使を完遂し、ゆっくりと目を開けた私の前には、幼き日のお姉ちゃんの姿があった。

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