第三章 2-2


「そろそろ、起きてくれないと脚が痺れるんだけど……」


 ぼやけた視界と微睡む意識の中で、聞き慣れたその人の声が響く。


 ほのかに漂う甘露かんろの芳香が鼻孔をくすぐり、後頚部こうけいぶを弾力的な柔布やわぬのが優しく包み込む。まるで心がなぎのように鎮まり、いつまでもこのままでいたいと願ってやまない自分がいた。


 世界とは相対的、相補的、或いは相反的なものだ。世界から自己を定義するためには、自分以外の一人が要る。一人が2個で二人になるのではない。二人がいて初めて2個の一人となるのだ。


 では、逆説的に言えば、二人がいれば世界は定義されるのか。ならば、その一人だけで良い。ずっと自分を見てくれる、ずっと自分と居てくれる、ずっと自分を愛してくれる……それはどんなに幸せな世界なことだろう。


 しかし、それは時にとても簡単で、時に絶対に不可能なことだ。なぜならその一人もまた、自分と同じ世界を定義し得るもう一人を求めているのだから……。


 やがて視界がはっきりとした像を捉え、こちらを見つめるミストリアの顔を映し出す。その頃にはもう、先ほどまでの思考はまるで風に吹かれたかのように霧散していた。


 ミストリアの向こうには、どこまでも続く青空が広がっていた。身体は依然として固い大地に繋ぎ止められているが、それでも首先から感じる心地好さが、まるで雲の上に浮かんでいるかのような錯覚を抱かせる。


 次第に覚醒する意識の中で、彼女は自身の置かれている状況を冷静に分析し、そして理解した。どうやらミストリアに膝枕をされているようである。


「私、やられちゃったの……?」


 徐々に意識を失う直前の記憶が蘇ってくる。あのとき、自分は突進してくる丸太兎ファッティラビットのプラナを奪おうとしたのだが、巨体の勢いを止めることが出来ず、後方に強く弾き飛ばされてしまった。


 幸いにしてこれといった損傷はないようで、ミストリアの回復魔法による効果なのか、身体は痛みを感じていない。しかし、彼女の瞳からは止めどない涙が流れ落ちていた。


 悔しかった。チョウセンの自己犠牲の末、あれほど辛苦を重ねて会得したはずの力が、ただの一体の魔物相手に通用しなかったのである。


 しかも、これは今回に限った話ではない。もしも相手が武器を持った人間であったならば、今頃は生きてはいなかっただろう。


 この力はあくまで奇襲でしか通用しないのだ。相手と正面から打ち合ってしまえば、プラナを消滅させる前に致命傷を負ってしまう。


 どこまでいっても、自分の力の無さが恨めしかった。空属性の力を以ってしても、自分にはこの程度のことしか出来ないというのか。


「もう、いつまで経っても泣き虫なんだから。あっちを見てご覧なさい」


 独り、悲嘆に暮れる頬をミストリアの手が左右から挟み込む。それはひんやりとして気持ち良く、そのまま首を横に傾けて地面の向こうを覗かされた。


 そこには、先ほどまで対峙していた白茶の毛塊けだまがあった。細長い耳も赤い楕円形の瞳も体毛に埋もれて隠れており、ウサギというよりは本当にただの巨大な球体である。


 どうやら、初陣は相討ちだったらしい。ミストリアと対峙していた灰茶も少し先でのびている。両方とも死んではいないようだが、当面は目を醒ますこともないだろう。


「……良いわ、ここから先は私が教えてあげる」


 再び、彼女の首を戻して自分の方へと向かせると、女神と称するに相応しい慈愛に満ちた表情で微笑む。それはいつか感じた母性に溢れていたのだが、心の片隅からみ出し続ける違和感に、そのときの彼女はまだ気付いてはいなかった。

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