第二章 3-3


 彼女が修練を始めてからというもの、皇女は欠かさずミストリアの動向を伝えてくれていた。


 皇女は公的機関の他にも多数の私兵を抱えており、腕利きの密偵たちがミストリアを追跡しているのだという。もとより入国前から彼女たちの動向は筒抜けであり、それが帝国内であれば尚更のことである。


 帝都カンヨウからバラトリプル教国との国境まで、天然の要害であるターパ山脈を越える道程は、徒行では二ヶ月を要すると見込まれていた。


 それは馬車でも一週間は掛かる距離にあり、必然的にそれを差し引いたものが修練の期間、つまりは彼女に与えられた猶予と目されていた。


 セイトは教国へと至る山道の入口となる要衝ようしょうにして、帝国北部における最大の都市である。しかし、間もなくミストリアがそこに到着するということは、残された時間がもう幾許いくばくもないことを示していた。


 無論、教国に入国した後でも追い付くことは出来るだろう。密偵の活動範囲は国外にも及んでおり、そこから先も監視は続けていくそうだ。


 りとて第三国に対する諜報活動は、彼女の立場としては到底看過できるはずもなく、また皇女への借りが大きくなり過ぎてしまう。


 それに、これは根拠に乏しい勘ではあるが、きっとそこがミストリアの定めた分水嶺ぶんすいれいなのだ。ミストリアが本来の道程を進んでいれば、もっと短期間で、かつ監視の目を撒くことが出来ただろう。


 希望的観測に過ぎない。身勝手な妄想かも知れない。それでもきっと、あのときのように自分を待ってくれている。もっとも、その甘やかしはいつまでも続くものではなく、帝国でのことは帝国まで……その先はもう無いだろう。


 しかし、まだ足りない。確かに空属性を修得し、魔法をマイナごと消去するという離れ業が可能となった。相手が魔術師であれば容易に遅れを取ることはないだろう。


 ただし、武人や魔物に対しては依然として無力なままだ。してや、こちらから攻撃する手段もないとくれば、これでどうしてミストリアに胸を張ることが出来るのか。


 そう、この力だけでは自分の身さえも守れはしないのだ。あの別離の契機となった事件においても、仮に力があったところで何の打開策にも繋がらなかっただろう。


……


……


 いや、果たしてそうだろうか。あのとき、取り乱したチョウセンが自分に触れた瞬間、まるで事切れるかのように地面に崩れ落ちていった。あれはミストリアの魔法だとばかり思っていたが、或いはこの力の一端だったのではないか。


「ふむ、さすがはニー様じゃな。手間が省けて助かるというもの」


 どうやら、また皇女を置き去りにして物思いにふけっていたようだ。いい加減、不敬罪が適用されやしまいかと急ぎ足で扉に向かったとき、皇女の背後に控える人物を認めて目を見張った。


「ふふ、今日はお目通り願いたい者がおる。なに、此奴こやつの命はニー様次第、どうぞお好きにしてくだされ」


 皇女が連れていたのは、あの事件の元凶の一人、彼女の頬に傷を付けたチョウセンであった。トウタクたちと同様、秘密裏に処刑されたとばかり思っていたが、予期せぬ再会に彼女の心奥がにわかかげりを帯びていく。


 チョウセンは縄に繋がれるでも、してや手枷を嵌められるでもなく、ただ皇女の後ろに黙って付き従っていた。侍女の常として、あまり感情を表に出さない手合ではあったが、今ではそれにも増して虚ろなようにも感じられる。


 正直、その姿を見て憤りを覚えないと言ったら嘘になる。確かにあのときの自分には油断も隙も十分にあった。そして、仮に運良く難を逃れていたとしても、いずれは同じような壁に突き当たり、ミストリアと別離を迎えていたことだろう。


 しかし、だからと言って、チョウセンたちのしたことは到底許されるはずもなく、また許すつもりもなかった。彼女は自分でも驚くほど冷淡に目の前の少女を見据える。自分がこのような負の感情を抱くなど、あのときまでは思いもよらなかった。


 それでも、今は私怨を捨てて考えねばならぬことがある。なぜチョウセンは生かされ、そして大人しく皇女に従っているのか。チュウエイ家の間者として皇女を裏切り、その代償として族滅の憂き目に遭った少女は、いま何を考えているのだろう。


 彼女の射抜くような視線を浴びてもチョウセンは表情を変えず、またそれに応えることもなかった。物言わぬ少女はただじっと彼女を眺めており、代わって皇女が答えを告げた。


此奴こやつには禁誓ゲッシュが掛けられておる。心配せずとも何も出来はせぬよ」

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