第二章 3-1


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 目の前には真白ましろの空間が広がっていた。前後左右、そして上下までもが全て白く塗り潰され、気を抜くと自身の存在までもが溶け込んでしまいそうになる。


 この空間に来るのも何度目だろう。決して望んで来ている訳ではないが、時折意図せずに迷い込んでしまう。しかし、ここに至ってようやく、この場所がどういうものであるかが分かってきた。いや、思い出したという方が正しいだろうか。


 ここは知覚の世界なのだ。この世界では自己の認識が形を成す。それがどこまでも白しか映し出さないということは、意識がまだそこには及んでいないということだ。今は自身の姿を維持するだけで精一杯なのである。


 一度、深く息を吸って、吐いて、意識を身体の内側に向けて集中する。まだ外側に拡散するには時期尚早。それはもっと段階を踏んでからだ。


 意識が溜め込まれた場所はちょうど丹田たんでん、おへその下あたりになる。それを丸くねてやると、身体の中には渦が巻かれ、やがては球体を形成した。


 今度はゆっくりと慎重に、球体を身体の外へと出してあげる。焦らず、大切に、慈しむように……或いはこれが、子を産むときの気持ちなのだろうか。


 やっと外に出てきてくれたら、そっと両手で抱き上げてあげる。じっと笑顔で見つめて、優しく前に押し出してあげる。球体は歩くように転がると、やがてその動きを止めた。


 しばらく見守り続けていたが、それ以上は動くことはなく、かといって消えることもなかった。つまりは、そこまでが自分の意識の及ぶ範囲ということだ。


 それを認識した瞬間、球体は独りでに宙へと浮かび上がると、そのまま自分の元へと戻ろうとする。今度はつぶさに球体を眺めてみた。それは確かに進んでいるが、こちらに辿り着くまでにはまだ時間が掛かりそうだ。


 不意に球体に赤い色が付いた。いや、赤と認識したから色が付いたのか、どちらが先なのかは分からない。尚も眺めていると、実は今まで単一の球体だと思っていたものが、もっと小さな球体が無数に集まった群体であることが判明した。


 今度はその小さな球体を凝視する。透明な硝子しょうしを敢えて湾曲させることで、物を拡大して視えるようにする道具があるが、当然のことながら手元にはない。


 しかし、それを認識することで小さな球体が、より大きく視えるようになった。そして、それもまた、より小さな球体の群体であった。


 その小さな小さな球体を、手を伸ばして一つだけ摘んでみる。元の球体は先ほどよりも近付いていたが、まだ届くまでには猶予があるようだ。摘んだものを指先に乗せてじっくりと観察してみた。


 そこには、ほんのりとした熱が、波が、重みが、そして痛みがあった。それを元の球体へと戻そうと再び手を伸ばす。しかし、小さな小さな球体同士が触れた瞬間、両者は跡形もなく消えてしまった。


 不思議に思いながら、今度は小さな球体を手に取ってやってみると、やはり二つは同じように消えてしまう。その次は一度に複数で試してみる。


 そんな事を繰り返している内に、元の球体はどんどん小さくなっていき、しまいには眩い輝きを放つ光だけが残った。


 それはまるで生きているようで、どこか神々しく、それでいて禍々しくも感じられた。


 最初は躊躇ちゅうちょしていたが、湧き起こる好奇心には抗えず、恐る恐るその光に触れてみると、それは一層激しくきらめいた後、この世界から永遠に失われた。


 果たしてこれで良かったのだろうか。そんな事を考えていると、目の前にはまた新しい球体が現れた。今度は青色だ。先ほどと同じように中の球体をぶつけて小さくして、最後に残った光へと触れていく。


 球体は消す度に現れた。それは違う色だったり、複数だったり、巨大だったりもした。そして、いつしか数えるのをやめた頃、ようやく球体は現れなくなり、代わりにあのしわがれた声が聴こえてきた。

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