第一章 1-4


 商隊と別れた後、二人は尚も街道を歩み続けていたが、恒星が西の大地に沈むのを見送ると、いよいよ今夜の宿を決める必要に迫られた。


 しかし、演習地で宿営した穹廬きゅうろはおろか、何ら野営用の装備も持ち合わせてはいない。今までは街道沿いに設けられた宿場町で事足りていたのだが、ここから先は野宿をせねばならなかった。


 幸いにして、食糧は先ほど調達することが出来た。水についてもミストリアの魔法で無尽蔵に生み出せる。しかし、夜間の冷え込みは外衣ローブだけでは頼りなく、また平原には獰猛な魔物も生息しているため、夜通し火を絶やさずにいる必要があるだろう。


 そんな付け焼き刃の旅知識を思い返していたとき、不意にミストリアが街道を外れて枯野かれのに足を踏み入れた。


 理由を尋ねても要領を得ず、仕方なく後を追う彼女であったが、ミストリアは唐突に歩みを止めると前方に向けて手をかざした。


 まるで水面が波打つように空間が歪んだかと思うと、ミストリアの手が吸い込まれていく。その光景に動揺を隠せない彼女であったが、やがてミストリアの全身までもが消えていこうとしたため、慌てて外衣ローブを掴むべく手を伸ばした。


 彼女の手が歪曲する空間を越えた瞬間、その先が鋭利な刃物に切断されたかのように消えてしまう。しかし、まるで痛みは感じられず、視えずとも確かにそこに存在するという感触があった。


 しばしの間、訳も分からず呆然と立ち尽くす彼女であったが、不意に消えたはずの手が力強く引かれると、身体全体が空間の先へと吸い込まれていく。


 やがて、辿り着いた先にはミストリアの姿があった。再び視認された手は固く握られており、どうやら中に引っ張られたらしい。


 周囲を見渡すと依然としてそこは枯野であったが、なぜか壁一枚、いや泡一枚隔てられているようで、外の風景が湾曲して映し出されていた。


「もう、いつまで外に突っ立ってるのよ」


 ほんのりと唇を尖らせながら、ミストリアが掴んでいた手を乱暴に離す。その瞬間、大地とは異なる感触に足が跳ね、宙に浮き上がるような錯覚に陥った。


 思わず目を丸くしてしまう彼女に対し、ミストリアは尚もいぶかしげな視線を送っていたが、やがて得心とくしんが行ったのか、表情を柔らかく緩めて笑みを零した。


「そっか、この魔法は初めてだったわね」


夢幻泡影バブ・ルーム


 魔力で作られた水泡により、外部と隔絶された空間を作り出す水属性の防性魔法である。強度はいつぞやの泡人形と同程度であり、また外観は裏側が透過して映し出されるため、耐久性だけでなく秘匿性にも優れている。


 泡には外気を遮断する効果もあるようで、内部の気温は一定に保たれていた。しかも地面は柔らかく弾力性に富んでおり、これなら寝台も必要ないだろう。


 本来の用途は術者とその周辺を隠すためのものだが、もはやこれが野営用の魔法と説明されても違和感はない。


「じゃあ、今日の分を済ませちゃうわね」


 感心仕切りの彼女に向けてミストリアが手をかざす。気が付けば、いつの間にか漆黒の外衣ローブを脱いでおり、彼女も慌てて自らの外衣ローブと腰鞄を取り外すと、水泡の群れが二人を包み込んだ。


 頭頂から脚の爪先まで全身が泡の中にあった。しかし、息苦しさは微塵も感じられず、水流が無数の小泡とともに身体を隅々まで撫で回す。


「んんっ……ん……あっ……ふぅ……」


 それは旅装束に下着、更にはその内側にまで及び、全身を愛撫されるような感触に思わず嬌声きょうせいが漏れる。


 やがて全身を覆う泡が消えると、二人は晴れやかな表情を浮かべていた。共に髪や柔肌に艶があり、まるで湯浴みをした後のようである。


清浄無垢バース・バイ・バス


 全身を洗浄する水属性の防性魔法である。戦闘において使用する機会は皆無だが、旅路や従軍時の嗜みとして貴族には重宝されている。


 なお、ミストリアのものには改良が加えられており、着衣のまま行使することで衣装の洗浄を賄い、更には軽傷程度なら治癒してしまう効果すらあった。


 当初はあまりの乱暴さに苦笑した彼女であったが、今やこの魔法の存在が旅の要といっても過言ではない。野宿は無論のこと、旅宿であっても浴室があるのは稀だからだ。


 ミストリアの魔法は戦闘のみならず、生活全般に広くきょうするように洗練されていた。これも単身での御幸ごこうを果たすために、綿々と培われた智慧ちえと技術の結晶なのだろう。


「もしかして、鍋も洋杯コップも要らなかったのかな」


 商隊の男と交渉した際、ミストリアが食糧の他には何も望まなかったことが気に掛かっていたのだが、ようやく合点がいった気がした。ミストリアは最初から万全の状態でこの旅に望んでいるのだ。


 それに引き換え、世俗にまみれた自分のなんと欲深きことか……もう、この先は余計なことはせず、黙って付き従うべきではという考えが頭をよぎり始める。


 しかし、ミストリアは返答の代わりに地面に転がった革袋をあさると、中から丸鍋を取り出して魔法を行使した。


星火燎原ファイア・ボール


 通常は対象に向かって火球を放つ火属性の攻性魔法であるが、神業ともいえる制御技術により、空中に浮遊した状態で固定されていた。そして、丸鍋に水と枯飯かれいい、更には購入した野菜や香辛料を加えて火球の上へと置く。


 その光景をぼんやりと眺めていた彼女であったが、ミストリアの目配せにより後を引き継ぐと、鍋のを揺らしながら火加減を調整し、煮立つのを見計らって二つの洋杯コップへと注ぎ込んだ。


 そして、洋杯コップの片方をミストリアに差し出すと、何度か息を吹きかけた後、恐る恐る口へと傾ける。やがて二人は互いに破顔はがんし合い、やっぱり枯飯はこの方が美味しいと舌鼓を打った。


 食し終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。そのまま寄り添うように仰向けになると、天上の彼方には満天の星空が瞬いていた。幼少期、幾度となく二人で見上げたその輝きは、今も変わらずそこに在り続けてくれていた。


 この時間がいつまでも続いてほしいと、隣に横たわるミストリアの確かな息遣いを感じながら、彼女はそっと瞳を閉じた。

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