第7話



 

 気付けば沈黙が続いていた。呼吸すら忘れてしまっていたアニタは全身で息を吐く。ド、ド、ド、とやけに心臓の音がうるさい。

 そんなアニタに、ヒューベルトは申し訳なさそうに、しかし喜びも含んだ顔を向ける。


「すまなかったねダルトン嬢。いきなりこんな話をされて、君には困惑しかなかっただろう?」

「えっ!……あ、はい、ええと……あの……」


 そうですね、と素直に頷きたいのを必死に堪えるも、どうしたって漏れ出てしまう己の素直さにアニタは泣きたくなる。救いなのは、ヒューベルトがそれを当然と受け止めてくれている事だ。


「正直こんな話、狂人の妄言でしかないのに、貴女は最後まで聞いてくれた。ありがとう」


 最後まで、なのだろうかとアニタは思う。きっとまだ他に話していない事があるのではないか。でも、それを聞く事ができる状況ではない。アニタの許容量はすでに溢れかえっている。

 それがわかったからこそ、侯爵は唐突に話を切り上げてくれたのだ。


「話を聞いてもらえただけで俺としては僥倖だ。君という異物が存在する場合もある……それが切欠で俺がこれまで繰り返してきた未来が変わるかもしれない。そう思えるだけで……希望が持てるだけで、本当に嬉しい。ありがとう」


 希望が持てる、と言う事は、希望が持てなくなっている、と言う事だ。

 それはそうだろう、だって彼は、もう幾度となく自分の大切な相手の死に様を見せつけられてきたのだろうから。

 軽く聞いただけでもその繰り返しは両の手では足りなさそうだ。それが一体どれくらい繰り返されてきたのか。

 何度挑戦しても、何度も失敗してしまう。万の策があろうと、いつかは尽きる。きっと彼はすでにその状況に置かれていたのかもしれない。だからこそ、自分という「異物」に出会ったと、彼はあんなにも喜びに咽び泣いたのではなかろうか。


「突然貴女を巻き込んでしまってお詫びのしようもないが、せめて今後は関わりを持たない様にするよ。貴女は貴女で、穏やかな未来を生きてくれ」

「候は……エヴァンデル候はそれでいいんですか?」


 なにかできるというわけではないし、正直な所関わりたくないというのが本音だ。しかし、だからといってこのまま関わりを絶ってしまうにはあまりにも――彼の泣き様が目に焼き付いてしまって離れない。

 今のこの瞬間も、これまで聞いた話が真実なのかどうかアニタは完全に信じているわけではない。目の前で傷付いた掌が瞬く間に回復するのを見た。それはたしかに驚いたし、目の前で起きた出来事である以上疑いはない。だが、彼の話までもが信じられるかと言うとそれはまた別だ。

 彼が素性を隠す事すらせず、その状態であんなあまりにも「頭がイカレている」としか思えない発言をアニタにする意味が無い。だからこそ、アニタは彼の話が嘘だと一蹴する事ができないでいる。

 そんな状態なので、せめて少しでも、彼の役に……彼が、安心できるような事が自分にできるのであれば、それくらいは手を貸してもいい。これは何も美形の涙に絆されてしまったわけではない。人として最低限の……それこそ、彼に捕まる原因になった、あの令嬢を助けようとした時と同じ、「最低限の優しさ」によるものだ。


「貴女は本当に優しいな、ダルトン嬢。だからこそ俺とはもう関わらない方がいい」

「……侯がそれを言います?」

「全くだ。俺が言えた義理ではない……それでも、貴女に報いる最善の方法はこれしかないと思う。ああ、もし貴女にとって、エヴァンデルの名が有用な時は自由に使ってもらって構わないよ」

「それは」

「領地の特産品を広めたい時とか」

「お言葉、ありがたく頂戴します!」


 即答してしまう己の俗物っぷりをアニタが猛省する中、クスクスと楽しそうなヒューベルトの声が室内に満ちる。申し訳ないやら恥ずかしいやらで、アニタはせめて不様に赤く染まった顔を見られない様両手で隠した。


「でも……あの、やっぱり、それではちょっと……」

「ん?」

「侯のお名前をお借りするにしても遠慮なくいけるよう、わたしにもなにかできることがあるなら」


 すでに侯爵家の名を借りる前提であるが、だからこそ気兼ねなく使える様にこちらも何かしら提供したい。彼としては話に付き合わせた礼という事であろうが、アニタからすればただ聞いていただけの事だ。それだけで、侯爵家の威を借りるのは流石に申し訳ない。


「貴女は優しい上に義理堅いんだな」

「……というより、今のままではあまりにも侯に恩を受ける形になるので」

「俺にとっては、むしろ貴女に対してどうやって恩義を返せばいいのか悩ましいくらいだが」

「恩義って……そんな、ただ話を聞いてっていうか、聞かされていただけですよ?」


 どこに恩を感じる必要があるのか。そんなアニタの疑問に対し、意外な答えが返る。


「貴女が存在しているというだけで、俺にとっては恩を感じるほかないんだ」


 向けられる声も表情も穏やかで優しいのに、アニタの脳裏で警鐘が鳴る。それはもうリンゴンと激しく鳴り響く。


「……なんでしょう、侯のその発言にやたらと……不穏な気配を……」


 そういやこの人散々「異物」って言ってたな、と思い出す。


「もう数え切れない程のあの二人の死に様を見てきたと言っただろう? 諦めたくはないし、諦めるわけにもいかない、と俺も意地になって繰り返しているんだが……それでも流石に辛くてね。どんどん希望が持てなくなって、その度に戻る期間が近くなってきているんだ」


 十歳の頃に戻っていたはずが、少しずつ「今」に近付きつつある。


「ついに二人の結婚式の半年前にまで戻ってきてしまった」

「お二人の結婚式……って、それこそ半年後」


 と言う事は、つまりはこの人はまさか、とアニタは瞠目する。それに対してヒューベルトは静かに頷いた。


「瓦礫に押し潰された二人の血を浴びたまま立ち尽くしていたら、突然今夜の夜会の場で、さらには貴女という異物がいたものだから……ひどく取り乱してしまったよ」


 うあああああ、とアニタは小さく頭を抱えて声を漏らすしかない。なるほどだから彼はあんなにも激しく咽び泣いたのだと理解する。


「ってそりゃ取り乱しもしますよね!」


 はは、とヒューベルトは暢気に笑う。


「そう、取り乱す程に貴女という存在に救われているんだよ、すでに。本当に、これまで一度たりとも出会ったことがなかったのに、今回初めてなんだ。だから、貴女が切欠で何かが変わるかもしれない」

「……変わらないかも、しれませんよ?」

「そうかもしれない。でもそうではないかもしれない。その不確定要素があるだけでも、俺にとっては一つの大きな喜びなんだ。これでもしまたあの二人を救えなくても、次に新たな要素が増えてそこで変えられるかもしれないと希望が持てる。ダルトン嬢――君がいるという事が、俺にまた次への繰り返しへと進む力になるんだ」

「あの……ひとつ、お伺いしてもいいですか?」

「なんだろう? 貴女の問いには全て答えるよ」

「お二人を助けて、侯の願いが叶ったら……侯はどう……なさるんですか?」


 どうなるんですか、とは訊けなかった。きっとそれは問われても本人にも分からないだろう。だから、彼自身がどうしたいのかをアニタは尋ねた。


「死ぬよ。いや、死にたいな」


 物騒すぎる言葉には似つかわしくない程の朗らかな笑みに、アニタは一瞬言葉を失う。


「俺だって本来は脇腹を刺されてからの失血死を迎えていたはずなんだ。それが……うん、きっと神に対して怨嗟の念を向けたからだろうな、だから俺自身が繰り返して二人を救えという事になっているんだと思う」


 それはきっと、不幸にも命を落としてしまった二人に対する神の慈悲ではなく、不敬にも神を恨んだ男に対する神罰に違いない。


「それもあるからこそ、俺は二人を救う事を諦められないんだ。あんな神からの試練なんかに負けるわけにはいかないからな」

「……わりと今の発言も不敬ですよね?」

「だからまあ、本願成就の暁には死にたい。今生こそ、安らかに死ねたらいいなとそればかりを思うよ」


 ダルトン嬢、とヒューベルトは改めてアニタを呼ぶ。


「貴女は俺にとって希望の存在で、そして――諦めずに死ぬための、それまでの命綱にほかならないんだ。なのでもう充分に力を貸してもらっているよ」

「侯……侯、もう一つだけ言ってもよろしいですか……!」


 どうぞ、とヒューベルトに手を向けられ、ガックリと頷いたままアニタは心の底から言葉を吐き出した。


「――命綱扱いとか荷が重すぎなんですが!!」

「それはすまない」


 重すぎる言葉と場の空気の中、当の本人の言葉はどこまでも軽かった。







「ところでダルトン嬢。ひとつだけ気を付けておいてほしいことがある。それこそ、俺の名前でどうにかできそうな時は思う存分使ってくれ」

「ええと……なにがでしょう?」


 すっかり疲れ切ったアニタは軽く視線だけを向ける。淑女としても、それよりも人としてまずもっていただけない態度であるがもうこればかりは仕方がない。ここまでアニタの気力を奪ったのは目の前の相手だ。多少の不敬は見逃してもらいたい。

 その念が通じたわけでもないだろうけれど、ヒューベルトは落ち着きのある声で、しかしアニタの不安を煽ってくる。


「ダイアナが貴女に目を付けていないとも限らない」

「ダイアナ様、って、その、例の……? でもわたしまだお会いしてはいないのでは?」

「ん? ああ、貴女は顔を知らないのか。貴女が颯爽と救い出した令嬢がいただろう? 彼女を取り囲んでいたあの場の主、酷く悪目立ちしていたアレがダイアナだよ」

「アレって言い方、っていうかすでにわたし出会っ……巻き込まれ……!?」

「まだそこまで目を付けられてはいないと思う――まだ」

「繰り返した!」




 関わりたくなくとも、もうすでにどうにもならない状態ではないのか。アニタの全身を嫌な予感がのし掛かり、そしてそれはいっそ笑えるほどに的中する。



 この邂逅から数週間後、アニタは突然王宮から呼び出しを受けた。

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死に戻りの侯爵様と、命綱にされたわたしの奮闘記 新高 @ysgrnasi

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