第4話




 全ての始まりは王太子ギルバートと、その婚約者であるケイトリンの結婚式だった。

 ここに至るまでの二人の仲は順風満帆とは言いがたい。まずもってケイトリンの身分が低い事が原因だ。

 彼女と話をするとたちどころに悩みや苦しみ、悲しみと言った負の感情が消え失せる、という話から「癒やしの聖女」などというご大層な枕詞が付けられてはいるが、元はアニタと同じ子爵家の人間だ。教会に信仰を集めるためのお飾りの聖女として祭り上げられている、と貴族の中では蔑む者も多い。


 伯爵令嬢のダイアナはその筆頭だった。王太子妃の座を隠そうともせずに狙い続け、ケイトリンがその座に付いてからは露骨な嫌がらせが後を絶たない。そうでありながら、証拠となる様な物も、その場すら押さえさせない狡猾さで、ケイトリンは徐々に精神的に追い詰められていた。

 それでも彼女が崩れる事無くギルバートの隣に立ち続けられていたのは、彼女の彼への愛情は元より、ギルバートも彼女を深く愛しており、そしてそんな二人の仲を二つ年上の幼馴染みであるヒューベルト・ファン・エヴァンデルが支えていたからだ。

 そうやってどうにかこうにか周囲からの妨害を乗り越え、ついに二人の結婚式が執り行われたその日――それが悲劇の始まりで、ヒューベルト・ファン・エヴァンデルの地獄の始まりであった。





 どうやって警護の者を振り切ったの今となっては分からない。けれど、嫉妬に駆られ、すでに狂人の域に達していたダイアナの握り締めた短刀は容赦なくケイトリンの心臓を貫いた。

 真っ赤に染まる純白のドレス。悲鳴を上げる前に大量の血を吐き出し床に倒れる華奢な身体。飛び交う悲鳴と怒号の中、さらにもう一つの兇刃が呆然としたままのギルバートを襲う。 その寸前、王太子を身を挺して守ったのがヒューベルトだ。脇腹に深く刃を突き刺されたまま、それでも一歩も引く事無くダイアナを押さえ付ける。が、しかし、か弱い貴族の令嬢であるはずの彼女の力は恐ろしく強く、ヒューベルトをもってしても抑え付ける事ができなかった。

 一瞬の隙を突いてヒューベルトの横をすり抜け、赤く染まったケイトリンの亡骸を抱え呆然としているギルバートの喉を横一線に薙ぐ。途端、鮮血を巻き散らかしながらギルバートの身体も床に崩れ落ちた。

 まさかの三本目の刃は、細く尖った針に近いものだった。それでも人一人絶命させるには充分すぎる威力を持ち、そしてそれを遺憾なく発揮した。


 ヒューベルトは堪らず膝を床に着く。そこでようやく他の兵士が駆けつけ、ダイアナを数人がかりで抑え付けた。か細い少女の身体を屈強な兵士が数人がかり、でありながら、やはりダイアナはどこにそんな力があるのか分からない程に暴れている。その光景をぼんやりと眺めるしかないヒューベルトは、己の腹部から大量の血と共に命が流れ落ちているのをひしひしと感じた。

 駆けつけた兵士の一人が懸命に止血しようと試みてくれるが、全くの無駄にしかならない。意識を保つようにと声も必死に掛けられる。それすらもヒューベルトには応える力が無かった。

 僅かに残った力で視線を動かす。その先には、愛しい妻を抱き締めるギルバートと、そんな彼に幸せそうに寄り添うケイトリン、が、いたはず、だった。


 二人折り重なる様に、まるで抱き合う様に、鮮血の中ただ静かに床に倒れ伏している。


 嘘だろう、とヒューベルトは思った。次いで、これはあまりにも惨すぎる、と。

 片や王太子、片や癒やしの聖女、というご大層な肩書はあれど、ヒューベルトにとっては彼らは可愛い年下の幼馴染みでしかない。貴族という面倒くさいしがらみの中で生きるより、自由気ままに外で暮らしたいと切望した事は多々あれど、それでも騎士として力を付け、貴族として生きてきたのは一重に彼らの傍にいたかったからだ。


 王太子であるからと、幼い頃からその責務を自覚して己を律して生きていたギルバート。

 勝手に祭り上げられながら、それでも誰かの救いになっているならばと癒やし続けたケイトリン。


 そんな二人が、肩書さえ外れればただの年頃の少年少女であったのを知っているのはヒューベルトだけで、そしてヒューベルトもまた彼らの前でだけは年相応に戻れていた。


「……あんまりだろう」


 微かな声は血の塊で他者の耳には届かない。それで構わないとヒューベルトは思う。ヒューベルトが聞かせたいのは他ならぬ、慈愛の笑みを湛えたまま物言わぬ肉塊となった二人を見下ろしている――女神の像に対してだ。

 正義と自由、そして真の愛を司ると言われる白亜の女神は、今は頬を朱色に染めている。ギルバートかケイトリン、一体どちらの血によるものか。もしかしたら二人の血が混ざっているのかもしれない。


「ケイトリンは……それこそアンタを信奉する奴らにいい様に使われてきたんだぞ……家族から引き離され、教会に囲われ、誰とも接触できないように飼い殺しにされて……!」


 王族のみが出入りの許される聖域。そこで出会った幼い二人は、徐々に交流を深めていくと共に愛情も深めていった。


「ギルバートだって……誠心誠意、民と、国と、そしてアンタら神に仕えて……自分の欲も望みも極力切り捨てて……諦めて、生きて……そんなアイツが、ようやく見つけた、たった一つの望みだったんだよ! ケイトリンは!!」


 ただただ、これからの生を彼女と共に歩みたいという、そんな小さな、ささやかな願いしか持たなかった。持てなかったのだ、あの王太子は。


「駄目なのか? アイツがそんな望みを持つ事自体アンタら神に対する不敬だとでも言うのか!? 恨み言を言うどころか、これも神が与えた試練だと笑っていたあの子に対する仕打ちがこれなのか、神よ!」


 乗り越えられる試練しか神は与えない、だから天を恨みはしない――そう言っては微笑んでいた彼と彼女の姿がヒューベルトの脳裏に蘇る。

 すでに声は出ていない。視界も霞みロクに何も見えない中、それでもヒューベルトの目にははっきりと、血染めの女神の姿が映る。


「ただ……共にいたいというそんなちっぽけな……ささやかな願いすら叶えてくれない……叶える力もない神なんざいるかよ! なにが神だ! そんな神はくそ食らえだ!!」


 意識が途切れる。その最期の瞬間、ヒューベルトは全身全霊で呪いの言葉を吐く。


「死んでも恨み続けてやる――」


 そうして彼は命を落とした、はずであった。



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