第3話




 自分の理解が及ばない事に対して人間は恐怖する。それが目の前にあり、さらには自分よりも立派な体躯で且つ力も強ければさらに増す。

 突然泣き出されたあげく、両手まで掴まれてアニタの恐怖は一瞬の内に頂点に達した。あまりの展開に悲鳴を上げる事すらできず、反射的に手を引き離そうとするが当然それは不可能だ。相手は成人男性、しかも国内最強と言われる騎士。そんな相手が渾身の力で掴んでいるのだからアニタごときの力で抵抗できるはずもない。それどころか痛みに顔を顰めてしまう。


「こ……侯爵、侯……、エヴァンデル侯!」


 ギリギリと骨が軋む音が聞こえてきそうだ。アニタはそれでも必死に体面を取り繕って侯爵に訴える。せめてこの手を離す、のがむりなら力を緩めて欲しい。だが、彼は余程興奮しているのか全く聞く耳を持たず、それどころかアニタが逃げようとしているのを察知してさらに力を強めてくる。これにはさすがにアニタも耐えきれなかった。


「いッ……、た」


 けして大きいわけではなかったはずが、しかし侯爵の耳には響いたらしい。ハッとなって顔を上げると、慌ててアニタから手を離す。


「っ、申し訳ない!」


 本人にとっても不測の事態だったのだろう。目に見えて狼狽えている姿に、逆にアニタの頭は冷静になっていく。

 一番の正解はこの場からすぐに逃げ出す事だろう。が、しかしそうするには目の前の相手の立場が上すぎるし、それ以上に彼の発言とその様子――いまだ両目から涙を流したままなのが気になりすぎて動けない。

 これ絶対面倒ごとの気配しかしないんだけどなあと思いつつ、それでも放置できるほどアニタは冷たくもなければそんな度胸もないので、仕方なしに預けていた手荷物の小さなポーチからハンカチを取り出した。


「あの……ひとまず、これをどうぞ」


 話を聞くにも逃げ出すにも、とにかくまずは侯爵自身に落ち着いてもらわなければならない。アニタにハンカチを差し出された事で、彼もようやく自分がいまだ泣き続けている事に気付いたらしく、大変申し訳なさそうに受け取った。耳の縁がほんのりと朱に染まっているのはアニタの見間違いではないだろう。アニタは淑女の嗜みとして当然そこに突っ込みを入れる事はせず、静かに侯爵の気が落ち着くのを待った。






 それからしばらくして侯爵は完全に落ち着きを取り戻したのか、まずはまっ先にアニタに詫びの言葉を向ける。


「本当に申し訳ないダルトン嬢。手は大丈夫だろうか? かなり本気で掴んでしまっていたから、痛めたりは」

「だっ、いじょうぶですご心配には及びません」


 アニタは両の掌をヒラヒラと振ってみせる。たしかにジンジンと今も痛みはするし、若干の痺れは残っているけれども心配される様なものでもない。自分は無事であるし、侯爵も落ち着きを取り戻しているからじゃあ今日はこれで、と続けようとしたアニタであるが、赤毛の騎士はそれを許さない。


「貴女は叔父と来ていると言っていたね? 彼に使いを出そう」


 なんの、と尋ねる前に侯爵が人を呼ぶ。アニタと話をするので先に帰るよう、侯爵家が責任を持って送り届けるから心配はしなくていい、との言伝にアニタは口を挟めない。あっ、とかうっ、とか意味のない声をあげはするけれど、ただそこまでだ。

 その間に改めて二人分の紅茶と、アニタのためにとちょっとした茶菓子が用意される。二人きりにされた室内ではあるけれども扉は僅かに開いたままで、もし万が一アニタが身の危険を感じる事があればすぐに侍女なり兵士なりが駆けつけられる様に気遣われている。

 これはもう完全にお暇などできずむしろがっつり話を聞かされる状況、とアニタは軽く痛み始めたこめかみをそっと撫でる。

 話ってあれよね聞き流したいけど到底無理な感じだったさっきのあれ、とチラリと視線を前に向けた。すると正面から視線がぶつかり合い、それによりアニタが話を聞く準備が出来たと勘違いした侯爵がゆっくりと口を開く。


「先程は本当にすまなかった。君という異物に出会えた事が嬉しすぎて気が動転していた。今は落ち着いているから安心してくれ」


 むしろ落ち着いてなおその発言なのかと思うと不安しかありませんが。そう言えるはずもなく、アニタは小さく愛想笑いを浮かべるしかない。


「ああ……本当に奇跡だ……もう無理なのかもしれないと諦めかけていたのにここにきて新たな異物が……!」

「あの、侯爵、ひとつお聞きしたいんですけど」

「なんだろうダルトン嬢」


 ひとつどろこではないけれど。それでも何度も出てくる単語を無視も出来ずにアニタは突っ込んでしまう。


「先程から繰り返してらっしゃる……異物とは?」


 それが指す物がどうやら自分であるらしい、というのはアニタも分かる。初対面の相手に向かって「異物」とはとんだ言い草ではあるが、今はそれに腹を立てるよりも、何故に彼がそこまでして歓喜に咽び泣くのかが気になって仕方がない。


「ダルトン嬢、貴女の事だ。貴女という異物が、俺がこれまで繰り返してきた中で今回初めて出てきたんだ。俺はそれがなによりも嬉し――」


 そうしてまた侯爵の目から涙がボタボタとこぼれ落ち、アニタは思わず腰を浮かせる。ハンカチ、とポーチを開くが先程手渡した一枚しか持っておらず、そして侯爵もアニタに渡されたハンカチですでに涙を拭っている。


「……落ち着かなくてすまない」

「……いえ」


 今度は幾分か早かった。ほんのりと頬を赤くしたまま侯爵がティーッカップに口を付けるのを見て、アニタも同じ様に手を伸ばした。少しばかり冷めてしまってはいるが、流石王宮で出される一品だ、美味しさは損なわれていない。


「これから私が――俺が話す事は、貴女にとっては荒唐無稽もいいところだし、むしろ俺の頭がおかしいと思うだろう。だがそれでもいい、いや、それしかないんだが、でも話だけでも聞いてもらえるだろうか?」

「わ……わたしなどでお役に立てるならぜひ」


 本当に心の底からご遠慮したい事ではあるけれど、それができるならそもそも今ここにいないわけでとアニタは覚悟を決める。そうして侯爵は話し始める――


「俺は死に戻りを繰り返しているんだ」


 それはアニタの覚悟など軽く吹き飛ばす威力を持つものだった。




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