第2話




 一体どうしてこうなっているんだろうかとアニタは目の前に出された紅茶を凝視したまま考える。が、いくら考えた所で混乱の極みにいる頭では答えが出てこない。

 こうなる切欠になった令嬢はすでにこの場におらず、アニタの腰掛けたソファの向かい、ローテーブルを挟んだ先にはヒューベルト・ファン・エヴァンデルが座っている。こちらも若干俯いた様な、しかし視線だけはアニタから外さない。それがなんとも居心地が悪くアニタは顔を上げようにも上げられずにいる現状だ。


 たしかあの令嬢は迎えに来た従者と共に去ったはず。そしてアニタも立ち去ろうとしたのだが、その姿ではとなにやら強引に別室に連れて行かれそこでドレスを着替えさせられた。

 元から着ていた物と同系色の、しかしどう見たって格上の生地とデザインのドレスに。

 どこから用意してきた物なのかだとか、本来の持ち主は誰なのかだとか、考えてしまうが答えを知るのも恐ろしい気がしてアニタは「こんな時のための物だから気にしなくていい」という言葉を鵜呑みにする事にした。こんな時、とはドレスがなんらかの理由で汚れた時のためなのだろう。さすが王宮主催、準備がいいと、そう思いたい。


「あの……エヴァンデル侯……」


 それにしてもひたすら沈黙が続くのにアニタは耐えきれなくなり覚悟を決めて口を開いた。


「改めて、今回は本当にありがとうございます。着替えに、こんなにも素敵なドレスをお借りしてしまってかえって気が引けますが、とても嬉しいです」


 華やかなドレスを身に纏うのは純粋に嬉しい。ましてやこんな生地もデザインも上等なドレスなど、本来であればアニタの身では手が届かない代物だ。なので素直に喜びと感謝を伝え、そしてこれが本番とばかりに本気の願いを口にする。


「気持ちも落ち着きましたし、叔父もわたしを探している頃かと思いますのでそろそろ」


 お暇を、という一番の、そして切実たる願い。だが、それより先に目の前の侯爵様がそれを遮った。


「――貴女とはどこかで出会った事があっただろうか?」


 は? と口にしかなったのをアニタは自分で褒めた。偉い、我ながらとても偉いと内心で必死に褒め称える。危うく不遜な態度を取るところだった。


 人の話は最後まで聞いて欲しい。あとそんなに凝視しないで欲しい。エヴァンデル侯爵と言えばその武芸・知略は元より、赤銅色の髪と黒と蒼の二色の瞳、スラリとした鼻梁に引きしまった口元と、その整った、もとい、整いすぎた容姿で常に社交界で話題の人物だ。年はアニタより七つ年上の二十四歳。その美形っぷりと社会的立場、さらにはこの年という事もあって彼の妻の座を狙う貴族令嬢は後を絶たないと聞く。

 さらには王太子であるギルバートと、その婚約者であり癒やしの聖女と称されるケイトリンの幼馴染みである事からその人気は止まる所を知らない。

この国では特に珍しくもなく、それでもあえて言うならば人よりは少し濃い茶色の髪と、淡褐色の瞳というこれまた特徴という特徴もない容姿のアニタとは雲泥の差だ。

 それ程までの有名人であるからして、社交界に極力関わりたくないと思っているアニタですら、その名と特徴的な容姿は耳にしている。


「いえ、全くの初対面です! ちっとも、これっぽちも過去にお会いしたことがあるだとかそんな話はありません!!」


 こうして話をするどころか、直接目にするのだって初めてだ。遠くから、ですら見た事がない。なのに彼が誰であるのか一目瞭然なのだから、改めて彼の容姿、存在感たるやである。


「そうか……そう、か……」

「……あの……もしや、失礼ながら……まさか」


 膝の上に肘を付き、ガクリと項垂れる侯爵の姿に途端にアニタの中で不安が募る。まさかこの期に及んで人違いだとか、そんな目も当てられない様な失敗の可能性が急上昇してきてアニタの背中に冷たい物が流れ落ちた。


「ああ、いや、大丈夫だ。貴女の間違いではないよ」


 その不安を感じ取ったのだろう、侯爵は顔を上げると僅かに口元を綻ばせる。


「先に名乗っていなかったこちらの不手際だな、申し訳ない」

「そんなことは!」

「遅くなったが改めて自己紹介を――ヒューベルト・ファン・エヴァンデルだ」


 お噂はかねがね、とアニタは大きく何度も頷く。これ程の容姿を持つ男性がそう何人もいては堪らない。


「貴女の……名前を、聞いてもいいだろうか?」


 おそらくはもう二度と会う事もないだろうに、わざわざこちらの名を尋ねてくれるその気遣いに、嬉しいと思う反面そっとしておいて欲しいとも思ってしまうアニタである。どう考えた所で二度目はないだろう。人脈を少しでも広げたいという目的がありはするが、だからといって流石に侯爵相手は無理な話だ。こちらの格が下すぎる。

 とは言え、名を問われて無視するわけにもいかないのでアニタは若干引き攣りそうになる頬をどうにか動かして笑みを浮かべ、己の名を口にした。


「アニタ・ダルトンと申します。に、西、の、方の領地で、畜産が盛んなんですけど……特に、鶏肉は人気が高くて」


 しかし人間欲には勝てない。少しでも何かに繋がればと、アニタは目的――領内で一番人気の高い鶏肉の流通経路を増やす機会にならないかと、つい宣伝をしてしまう。

 だってこれが目的でわざわざこんな面倒くさい夜会に参加したんだものー!! などと胸の内では全力で言い訳大会が始まる中、突如としてグラリと空気が蠢いた。

 え、とアニタは思わず俯いていた顔を上げる。そして、そこに広がる光景に堪らず両の瞳と口を大きく開いて固まってしまった。

 淑女としても、年頃の娘としても褒められた反応ではないだろう。しかしこればかりは仕方がないとアニタは思う。


 だって、目の前で、自分よりも格段に優れた、年上の成人男性が、両目から大粒の涙を零して凝視してくるのだ。


 は? とまたしても口から飛び出そうになった言葉をアニタは寸前で飲み込む。危ない、今のはとても危なかったと、こちらは背中に大量の汗を流しながらもひとまず安堵の息を吐く。しかしその一瞬の隙を侯爵が突いてきた。


「はじめてだ……」

「……え?」

「この繰り返しの中で、初めて君と出会った!」

「はい!?」


 両目から滝の様な涙を流したまま、さらには感極まった声を上げられれば誰だって身構える。そのあげく、テーブル越しとはいえ両手を掴まれては驚きに息を飲む。


「何度も繰り返す内に流石に諦めかけていたんだ! だからとうとうこんな直近にしか戻れなくなったのに……なのに、今、こうして君と――君という異物と出会えただなんて、奇跡でしかない!!」

「は?」


 侯爵からのトドメの言葉に、三度目を堪えることはアニタはできなかった。



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