第36話

 街を外れる。雪原が、エルヴィの目の前に広がっていた。

人の気配はない。冷たい風が吹き抜けて、雪を散らすだけだ。

 そしてエルヴィとアリスは、狼たちによって囲まれていた。最初は二頭だけだったのが、街の通りを歩くうちに数を増やしていき、やがて五頭になっていた。どれも近づき過ぎず、三十メートル程度の距離を開けて、二人と同じ方向に向けて前に進んでいる。街の逃げ遅れた人を探すこともなくついてきた。

 狙いはエルヴィだ。

 『白い家』を抜け出したエルヴィが、不審な動きをしないように。

「姉さん」

 エルヴィは、アリスを呼び止めた。

「何だ?」

「そろそろ剣、返すね」

「いいのか?」

「私が持っていたら、パーヴェルに怪しまれる」

ここまで来たのだ。もう自分の命を質にして、アリスを言いなりにする必要はない。

 アリスはゆっくりと近づいてきた。両手を出してくる。

 エルヴィは、持っている剣の柄をアリスに向けて差し出した。アリスは受け取り、剣を鞘にしまう。

「エルヴィは、これを。身を守ることだけを考えたらいい」

 アリスが、代わりに鞘に収まったナイフを渡してくる。

「わかった」

 エルヴィは受け取り、服のポケットにしまう。

「時間を稼ぐ。そのことだけを考えろ」

「うん」

 この先、命のやり取りをすることになる。服の中のナイフが、重たく感じた。

「では、進むぞ」

 アリスが、引き続き歩き出した。エルヴィもまた、姉についていく。

 雪原の向こうにあの人物が見えていた。護衛のように、五頭の狼に囲まれている。ここからでは小さくても、エルヴィにはわかった。

 あそこにいるのは、パーヴェルだ。黒い長髪からのぞく暗く冷たい瞳に、エルヴィは身が震えそうになる。

 霞化の実験を仕切り、クラウスやエルヴィをその実験体にし、アルやイリヤの死のきっかけになり、街に獣を放って多くの人を殺した男。『白い家』において、アリスよりも立場が上だったから、今回のウルムの街で発生した虐殺行為はこの男がすべての原因だ。アリスは、あの男に命じられて動いたにすぎない。

「エルヴィ、私のすぐ後ろに」

 アリスが声をかけてくる。言われるまま、エルヴィはアリスの一歩後ろについた。

変だ、とエルヴィは思う。さっきはエルヴィが脅して、アリスを前に歩かせていたのに。

「わかっているな。身を守るだけでいい」

「うん、姉さん」

エルヴィとアリスは、そのままパーヴェルのほうへと歩んでいく。

そのまま、彼のすぐ目の前まで来た。

「アリス、ご苦労だった」

 パーヴェルが、声をかけてくる。言葉とは裏腹に、労りの感じられない声だった。長髪で半分隠された顔からは、何を考えているのか掴みにくい。

「エルヴィは、無事に確保しました」

 アリスは報告する。

「生きていたようで何よりだ。機密の漏洩は?」

「ポトリアで記憶を封じられていたことから、心配はないかと」

 アリスとエルヴィを監視するように随行していた狼が、背後にまわる。パーヴェルのそばにたむろしていた狼も、二人の両脇に移動していった。ゆっくりとだが、エルヴィとアリスを包囲しつつある。

 エルヴィは、周囲に立ち込める殺気を感じ取っていた。

 大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。

「このままエルヴィをこちらへ、私からも彼女に聞きたいことがある」

 パーヴェルに言われて、アリスはエルヴィに視線をやる。

「わかった」

 エルヴィは素直に従うふりをして、前へと足を進める。

 アリスが、腰の剣に手をかけた。

 エルヴィが、意図したとおりだ。

 パーヴェルを、殺そうとしている。

示し合わせてはいないけれど、アリスがそのように動くのは当然だ。

パーヴェルは、エルヴィを殺そうとした。エルヴィを生かすために、彼は邪魔だ。

 エルヴィにとっても、都合がいい。パーヴェルは、クラウスやウルムの街の人たちにとって脅威だから。

 だがパーヴェルは、突然腰に手を添えた。銃を抜いて、アリスに向ける。

 引き金が引かれたとき、アリスはその場から跳んで射線から外れた。アリスとエルヴィの間を銃弾が飛んでいく。

「……元々その気なら、なぜ街で殺さなかった」

 アリスの声音が、変わった。敵への問いかけ、そのものだ。

「街の中で襲わせたら、ヴィラン側につかれるかもしれない。敵に機密を漏らされても困るからな」

 パーヴェルも、敵意をあらわにしていた。

「私が、家族の仇に寝返るとでも?」

 アリスが顔を歪める。

 パーヴェルは、続けた。

「エルヴィは、始末するつもりでいた。『白い家』を抜け出した時点で、我々を裏切ったも同然だ。敵にどんな機密を漏らすつもりなのかもわからない。それをお前が連れ帰った。手間が省けたよ」

「私も裏切ると見越していたか」

「そうだ。前衛基地や通信基地への攻撃は素直に従ってくれて、驚いたくらいだよ。おかげで作戦の遂行も早まった」

「エルヴィを助けに向かうという意味もあった。だが、お前と敵対すると決めたのは、私がこの街に入ってからだ」

「ほう」

 試すような笑みを浮かべるパーヴェルに、アリスはただ怒りをぶつける。

「エルヴィがいるかもしれない街に、狼を放った。その時点で、お前は妹を殺そうとしたも同然だ」

 エルヴィは、とっさに服の中に隠したナイフを取り出した。

 もう戦いの最中だ。

 だがナイフを握るエルヴィの手に、赤いものが散った。

「え?」

 エルヴィが、視線を上げる。目の前に、首のない狼がいた。頭部を失った箇所から血を散らしている。

 そして近くには、剣を振り下ろしたアリスがいた。

 襲いかかってきた狼の首を切り落としたのだ。

「妹は、やらせない」

 アリスは、剣の切っ先をパーヴェルに向ける。エルヴィはとっさに姉の背後に立って、背中を守る態勢になった。

「さすがは、アリスだ。狼の動きを読んだな」

 パーヴェルが、大げさにアリスを称賛する。一頭をアリスにやられたものの、声に余裕があった。

「だがお前が不利だ。こちらにはこれほどの数の狼がいる。いつまでもつかな?」

 パーヴェルが言っている間にも、もう一度、エルヴィの近くで肉体が斬られる鈍い音が聞こえた。また、霞化で肉薄してきた狼をアリスが斬ったのだ。

「数の上で有利だと、本気で思っているのか?」

 アリスが言う。

 そのときだった。

 ウルムの街から、轟音が響いた。

 空に向けて砲撃している音だ。砲撃音は周辺の山々にこだまして、何重にも響く。

 パーヴェルの周囲を固めている狼たちが、ひるみ、動きを止めた。

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