第35話
エルヴィはウルムの街の通りを、アリスに続いて歩いていた。アリスから奪った剣は、自分の手に持ったままだ。
「無事でいてくれてよかった、エルヴィ」
アリスは、背後のエルヴィに言う。
「そんなことはどうでもいい」
「クラウスを、一緒に連れてこなくてもいいのか? あの子はお前にとって」
「クラウスは関係ない」
二人の周囲は、無人だった。市民は地下や、建物の奥に身を潜めたのだろう。今歩いている通りには、人の気配がなかった。アスランの家で過ごすようになった直後、街の案内も兼ねてクラウスやレーア、ローゼマリーに連れられてこの通りを歩いたときは、たくさんの人通りがあって賑わっていたのに、その名残もない。
代わりに、たくさんの遺体が転がっていた。
パーヴェルたちの放った狼たちに食い殺された。もちろん、犠牲者は大人だけではない。
「ここでも子供が」
エルヴィは、足元に転がる遺体から目を逸らした。我が子を守ろうとしたらしい両親の遺体も転がっている。
レーアの初等学校でも、多くの子供が犠牲になっていた。狼たちは、ウルムの市民を皆殺しにするつもりらしい。
「彼らに同情するのか?」
この殺戮を引き起こした関係者の一人、アリスが、背中越しに尋ねてくる。
「この街の人たちに罪なんてなかった。殺される理由なんて」
「罪ならある。私たちなら、よく知っているはずだ。故郷の村を焼いて、私たちから家族を奪誰だ?」
「ヴィランの歩兵部隊、でしょう」
エルヴィが、アリスと一緒に『白い家』に入る前のことだ。故郷の村に、銃を持った男たちが押し寄せてきた。幼かったエルヴィは、母によって家の物置きの奥に隠された。暗い中、アリスに耳を塞がれながら、小さく身を縮めてすべてが終わるのを待っていた。
「奴らは村の人たちを殺した。家にも火を放った。さらには私たちを隠した父や母も」
銃声は、エルヴィも聞いていた。家に知らぬ人がたくさん押し入ってくる足音も、自分たちを守ろうとした両親が、外に連れ去られていく悲鳴も。
エルヴィは隠れていた場所を飛び出して、父や母を追いかけようとしたけれど、アリスに体を押さえられ、口を塞がれていたから、呼びかけることすらもできなかった。
家の中が静まり返ったときに、今度は煙のにおいがした。家に火が放たれたのだ。アリスは急いで、エルヴィを連れて家の外に飛び出した。
ヴィランの歩兵部隊が銃を構えて略奪を続けているところへ。
「ここは、敵の国の街だ。私たちから家族や故郷を奪った者たちの国だ。そこの連中を許すことはできない」
「だからって、子供まで殺すことはなかった。みんな普通に暮らしていただけなのに」
この街の人たちは、優しかった。市長のアスランからしてそうだ。記憶を失い、出自が不明な自分を気味悪がったりせずに家に招いてくれた。街を歩いている人たちも仲が良さそうで、笑顔がいっぱいで、できるならずっと住んでもいいかもと思っていた。
「それに故郷を焼いた連中は、みんな死んだ。こんなことをする意味なんてないよ」
アリスの手によって、すでに復讐は果たされているはず。
「確かに、村を焼いた連中はみんな殺した。だが、奴らが勝手に動いたとは思えない。あんなことを命じた輩がいる。そしてそんな輩が、この街にもいるかもしれない。そいつらが自分のしたことも忘れ、家族と一緒に何食わぬ顔で暮らしているとしたら?」
昔からそうだ。アリスは、エルヴィに対しては優しい。でも自分たちから家族や友達を奪い、故郷を生まれ育った家ごと焼いた連中を恨み続けている。
街の人たちを殺すな、と言っても無駄だろう。アリスは聞かない。
むしろ、聞くべきことは他にある。
「パーヴェルは、この街に来ているのよね」
「ああ」
「私が生きていること、あの人は知っているの?」
「だから、あいつらが集まってこっちを見ているのだろう」
アリスは、道路の向こうを指さした。エルヴィとアリスが歩いているのとは逆の歩道には、二頭の狼がいた。こちらに目を光らせている。
「何のつもりなの?」
「決まっているだろう。彼は、お前のことを監視している。当然だ。お前は彼の元から逃げ出して、単独で敵国に入った。裏切ったと思われても仕方がない。迂闊に動けないのは、お前のほうだな」
パーヴェルは、霞化を駆使できる獣たちを駆ってヴィランの都市に攻撃を加えようとしている。エルヴィがその計画を知ったのは、去年の冬に入った直後のことだ。
「なぜ、『白い家』を抜け出した? 危険なのはわかっていたはずなのに」
「姉さんなら、わかっているはずよ。クラウスとイリヤは、四年前にこの国に逃げ込んだ。二人がいるとすれば、この街の可能性が高い」
「パーヴェルの計画を知って、二人に危険を知らせるつもりだったのか? 見つかるあてもないし、どちらか、いや二人とも死んでいたかもしれないのに」
確かに、見つかるあてなどなかった。雪原に埋もれた探し物を掘り当てるようなものだ。
「でも、クラウスは見つかった。しかも、森の中で倒れた私を見つけてくれて。賭けには勝った」
一生の幸運をすべて使い果たしたとしても、なお足りないくらいだろう。死んでいるかもしれない、という不安のほうが強かった。だからクラウスの黒い瞳を見たとき、ただ嬉しかった。
「クラウス、あの狼から私を守ってくれたって。牙と爪が異様に伸びた、雪の上を一瞬で移動する化け物みたいな狼から。私、気を失っていたからよくわからないけど」
エルヴィの言葉に、アリスの顔が一瞬だけ、怒りに歪んだ。
だがすぐに、真顔に戻る。
「だがお前は、そのクラウスに何もできなかったようだな」
「そうね」
クラウスに見つけてもらったとき、すでに『白い家』を脱走してから一週間がたっていた。ポトリアの効果で記憶が封じられる直前で、クラウス、という名前すら、思い出せない状態だった。
――……逃げて。
記憶の砂時計の最後の一粒がこぼれ落ちる中で、その言葉を伝えるだけで精一杯だった。
後はただ、この街で暮らしただけだ。クラウスや街の人たちに迫る危機も忘れ、ただ、エルヴィという名前以外のすべての記憶を失った少女として。
「無駄足だったと、思うか?」
「全然。クラウスの無事がわかっただけでも、いい。残念だったのは、イリヤのこと」
「クラウスは、あの子は死んだと言っていた」
「教会の墓地に葬られているわ。私もお墓を見た」
墓地で唯一、名前が刻まれていない墓。あそこに眠っているのは、イリヤで間違いない。四年前、クラウスが目を覚ましたときに隣で死んでいた女の子、という話からしてそうだ。名前が刻まれていないのは、クラウスの記憶が封じられて、イリヤの名前を思い出せなかったから。
「できれば墓参りをしたい、というのが私の本音だ。敵の国の輩にあの子が触れられたのが気に食わないが。……でも、そこまでする余裕はないな」
さりげなくウルムの街の人への憎悪をちらつかせて、アリスが先に歩き続ける。
「ええ、残念だけど」
最後に墓参りしたとき、墓に眠っているのが誰なのか知らないままだった。
せめてあの墓の前でイリヤの名を呼んで、この街を去りたいのに。
「お互い、未練があるのだな」
アリスの言葉に、エルヴィは顔を上げる。
「私はないわ。とにかく先に行って」
下を向いたらいけない。エルヴィは、胸を張った。視線をしっかりと前に据える。
今、迷うわけにはいかない。迷っていたら、これから対峙する敵と戦えない。
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