第32話

 地下避難施設の、薄暗い小部屋に、ユージンとローゼマリーはいた。

 いまだに意識が戻らないクラウスは、奥に毛布を敷いて、そこで横になっている。

 そしてこの小部屋には、もう一人いた。ユージンとローゼマリーの、テーブルを挟んで向こう側に座っているのは、ウルム市の現市長。

 アスランである。

「では、私にも詳細を聞かせてもらおうか。敵と接触したことと、私の息子について。これは市民の安全にも関わる情報だ」

 アスランが話し始めた。クラウスが記憶を取り戻し、敵側の人間だったことはすでに伝えている。それなのに、クラウスのことをいまだに自分の息子と呼んでいた。

「ここに侵入した敵は、アリスと名乗っていました。エルヴィの姉で、あの狼を放ったとはっきりと言っていた」

 ユージンは報告を始めた。アスランは軍関係者ではないが、この街の市長で、市民の安全を守る責務を負っているのだ。報告はしたほうがいい。

「クラウスは、すべてを思い出したのか?」

「アリスは、クラウスとエルヴィに注射をした。その後のクラウスは、アリスのことを知っているように話していました。エルヴィも同じです。初対面のはずなのに」

「記憶を取り戻す薬か? にわかには信じられないが、否定もしがたいな」

 ユージンは身を乗り出した。

「信じるのですか?」

「これは君らの教官のタルム殿から聞いた話だが、十年前の戦争でこんな事例があったそうだ。自分の名前以外のすべての記憶を失った、カルガト軍の捕虜の話を」

「それって、クラウス君とそっくり」

 ローゼマリーが声を漏らす。

「でも兵術学校ではそんな話、聞いたことがありませんよ」

「十年前の戦争を戦った大人の、ごく一部しか知らない話だ。ユージン、君は当時、幼かったしね。しかも捕虜の彼らについては、近くに砲弾が着弾したことによる記憶障害としか扱われていない。つまりは、ただのシェルショックと。乱暴だな」

「ではクラウスも」

「カルガトは工業力ではこの国に劣るが、生物学や医学が独自の発展を遂げた国だ。敵に知られたら都合が悪い情報を、記憶ごと消す技術が存在したとしてもおかしくない」

「そんな、心を踏みにじるようなこと」

 ローゼマリーがつぶやく。

「ということはアスランさん、クラウスの出自を知っていたんですか」

 ユージンは、驚く。もしアスランの話す技術がカルガトに本当に存在しているとすれば、クラウスが抱えているのは相当に重要な情報のはずだ。そうでなければ、わざわざ記憶を消すような処置を施すはずがない。

「それなのに養子に迎えたなんて」

「当時のあの子は、すべてを失っていた」

 アスランは、横たわるクラウスを見つめる。

 カルガトの何か重要な秘密を握らされているとはいえ、四年前のクラウスは、記憶を失った、ただの子供だった。親も兄弟姉妹も、親戚も、その他身元を引き取るべき大人も、いるかどうかすら不明。帰るべき街や村も、不明。完全に孤独だった。

 そんな子供が一人で生きていくなど無理だ。悲惨な結末になるのは目に見えている。

 博愛主義者のアスランは、そんなことを許さない。

「だから私は、あの子を引き取った。幸い妻も娘も喜んで、クラウスを迎えると言ってくれた。優しい妻子を持てて、私は誇りに思うよ」

 アスランは、まっすぐにユージンを見つめる。穏和な茶色い瞳から、ユージンはアスランの違いを突きつけられているように感じた。

 四年もの間、クラウスを無国籍者と罵り、敵側の人間だ、排除すべきだと周囲に吹聴し続けたユージン。

 それでも守られるべき子供だからと、クラウスを家族に迎えて帰る場所を与えたアスラン。

 兵術学校に通うただの少年と、ウルムの街に暮らす十万もの人々の命を預かっている者との、懐の深さの差。

 横たわっていたクラウスの手が、ぴくりと動いた。

「エルヴィ!」

 直後、クラウスは勢いよく起き上がる。

「クラウス君」

 ローゼマリーの瞳が揺れた。クラウスの忌むべき、封じられた記憶を解放するきっかけとなった彼女は、手を硬直させている。

 だが当のクラウスは、構う様子もなかった。視線をローゼマリーに向けると、彼女に駆け寄る。

「俺はどれほど寝ていたんですか。エルヴィはどうなった?」

「クラウス、落ち着きなさい」

 アスランの声で、クラウスの動きが止まった。

「アスラン、さん」

 クラウスは、仮の父親に目を向ける。

「この二人から話は聞いた。お前のことも」

 お前、と呼ぶときのアスランは、やはりいつもと変わらなかった。兵術学校を訪問し、お前元気にしていたか、と言いながらクラウスと面会するときと同じだ。

「聞いたなら、話が早い」

 クラウスは立ち上がった。

「どこに行くつもりだ?」

 アスランの声が小部屋に響く。

「エルヴィを追う」

 クラウスの声も、アスランに負けていなかった。

「まだ街から離れていないはずだ。追いついて、二人だけで逃げる。あいつをこれ以上、こんなことに巻き込んだりしない」

 クラウスがエルヴィを追いかけるのはいい。でもクラウスは、同時にどこかへ逃げると言った。ここに戻るとは、言わなかった。

「クラウス、もしエルヴィに追いついたとして、何をするつもりだ? どこに逃げる気でいる?」

 ユージンは、すかさず尋ねた。

クラウスから、自分たちのところに戻ってくるという意思を感じない。

「カルガトに、逃げ込むのか?」

 つまりは、クラウスとエルヴィの祖国に。

「そんなことはしない。それでアリスたちに捕まれば、また実験や人殺しの道具にされる。そんなこと、俺は認めない」

 カルガトに戻るつもりもないとも、クラウスは告げた。

「ならここに戻るのか?」

 うなずけ、肯定しろ、とユージンは思いながら問いかける。

 だがクラウスは、首を横に振った。

「俺は、エルヴィと一緒に、ここから消える」

 いなくなると、クラウスは告げた。

 ユージンは、クラウスに詰め寄っていた。胸倉を掴む。

「どういうことだクラウス」

「やめなさいよ、ユージン」

ローゼマリーの声が響くが、耳を貸すことはしない。

「俺を止めるつもりなのか、ユージン」

 胸倉を掴まれても、クラウスの目は冷たいままだ。

「ああ、そうだ。ここに戻らず、カルガトにも向かわないとして、二人だけでどこへ向かうつもりだ? あてはあるのか」

 クラウスがとろうとする行動は、無責任だ。それでエルヴィはどうなるのか? 残される兵術学校のみんなや、アスランたちの一家はどうなる? 傷ついて眠っているレーアが目覚めたとき、クラウスのことはどう伝えたらいい?

「ユージンが、そんなことを言うなんてな」

 クラウスが冷たい瞳のまま、ユージンの手を掴んだ。胸ぐらから勢いよく引き剥がす。

「むしろ、あんたにとっては好都合なんじゃないのか?」

「好都合?」

 クラウスのことを無国籍者と呼びそやし、敵国からのスパイと決めつけ、自分たちから排除すべきだと言ってのけた。

「ずっと、俺がいなくなればと思っていただろう、あんたは」

 恨まれても仕方がない、とユージンは覚悟している。

だがクラウスの黒い瞳からは、恨みなど感じない。ユージンのしてきたことなど、どうでもいいことのようだった。

 すべてを失っていたクラウスにとって、家族に恵まれ、学校に通えて、友人もいて、普通の少年としていられるだけでも、とって大きすぎる奇跡だ。ユージンのしてきたことなど、些細なことに過ぎない。

「ああ、確かに俺は、あんたのことを敵国のスパイ扱いしてきたさ」

 ――クラウスは記憶を失ったなんて嘘をついて、この国について探ろうとしている。

 違う。

 そんなこと、ユージン自身は本気で思っていない。自分と同い年くらいの子供にできることなんて、たかが知れている。現にこの四年間、クラウスは特に怪しい行動もとらず、街の他の子たちと変わらない普通の少年として過ごしてきた。

「俺の家族のことは、聞いているか?」

 ユージンは、自分のことを持ち出した。

「うん? あまり。あんた、自分の家族のことは話さないだろ」

「十年前に、家族が戦争で死んだ」

「噂だけは聞いている」

「死んだのは、俺の親父と妹だ。妹を抱えた親父が砲弾にやられた」

「何?」

 頑なな態度だったクラウスが、目を見開いた。

「かろうじて、母は生き残って、休戦を迎えたけどな。一緒に生き残った母を支えるために、俺は必死だった」

「……」

 クラウスは、黙ってユージンの話を聞いていた。

「でも親父と妹を失った穴は埋められなかった」

 夜寝るときに、または用事があって街を一人で出かけるときに、父親と妹の顔が頭をよぎっては、しばらく動けなくなる。そんなことが、たくさんあった。

幸いだったのは、母親はそれでいいと言ってくれたことだ。父親と妹の死をいつまでも引きずるユージンをそっと抱いて、慰めてくれた。でもそうされると、今度は自分が母親の重荷になっていないかと不安になったりもした。

「母さんを支えることで寂しさをごまかしていたが、そんなときに会ったのがクラウス、お前だよ。最初、俺はお前を憐れんだ。名前以外、お前はまさに何もかもを失っていたからな」

 家族がおらず、生まれ育った故郷もなく、その存在すらも忘れ去ってしまったクラウス。

 自分よりもはるかに不幸だ、とユージンは思った。家族を失ったが母親は生きているし、故郷もあり、友達も知り合いもいる。家族が二人も死んでしまったけれど、悼むべき名前もきちんと覚えている。そんな自分のほうが、ずっとマシだった。マシな、はずだった。

 だから、クラウスに嫉妬しないわけにはいかなかった。

「四年前、お前が退院した日、教会の墓地にいたよな。アスランさんと一緒に」

「ああ、雨が降っていた。まさかユージン、あそこに」

「偶然通りがかっただけだったが、墓地から出てくるお前を見ていたんだ」

クラウスは、アスランが差す傘の下で、せかすようにレーアに左手を引かれていた。三人はそのまま、墓地の入り口で待っていたユーリスとも合流し、四人で一緒にアスランの家へと歩いていった。

 クラウスがアスランたちの一家に引き取られたのだと、言われずともわかった。すべてを失った少年が、家族を得た。

 父親と妹を失ったユージンの目の前で。

「俺はお前を妬んだ。すべてを失ったお前が、俺が失ったものを得たから」

 なぜクラウスだけが幸せになるのか、ユージンは疑った。返せるものもないくせに。

 そしてクラウスと同じ中等学校に通うようになる。日を追うごとに、クラウスが笑顔を浮かべることが増え、それに比例して、ユージンの妬みは募る。街でレーアと手を繋いでどこかに出かけるクラウスを見たときなど、ユージンは発狂しそうだった。

 それ以上、幸せになるなと呪った。

 父親と妹を失った自分が、もっとみじめになるから。

「だからお前が敵なんて、思ってなかった。俺が言ったことは、すべて嘘だ」

 子供じみた嫉妬だ。もしクラウスが自分を罵るのならば、それでいいとユージンは思う。

「エルヴィも敵扱いしたのは、同じ理由か?」

「ああ、そうだ」

「俺が、敵と繋がっていたと知った上で、そう言うのか?」

 クラウスは、霞化、とアリスが呼んだ力を使った。ユージンやローゼマリーの目の前で、敵と繋がっているかもしれないと疑われるのに、だ。

 そこまでしてクラウスがしたことは何か?

 レーアという、この街の普通の女の子を守ろうとしただけだ。

「俺はお前を信じる。信じさせろ」

 小部屋の前が慌ただしくなった。複数人の足音が外から聞こえてくる。

 そして小部屋の扉が開けられた。二人の部下を引き連れたタルムが、小部屋に入ってくる。

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