第31話
ユージンは、目の前で意識を失ったクラウスを見下ろしていた。
ひたすら、状況を整理する。クラウスとエルヴィが、アリスと名乗った女に注射を打たれた。二人は苦しそうにしたが、すぐに落ち着いた。
そして、記憶を取り戻したみたいだった。クラウスは、アリスのことを知っている様子だったし、アリスも、ずっと前からクラウスのことを知っている様子で話していた。
エルヴィもそうだ。アリスのことを姉と呼んでいた。
つまりあの注射で、二人はすべての記憶を取り戻した。
クラウスは四年前にこの街の近くに現れるまでの記憶を。そしてエルヴィは、去年末に雪に覆われた森の中で救出されるより前の記憶を。
そしてアリスは、クラウスにお前はこの国の敵だと告げていた。つまりは、ユージンや、ここにいるローゼマリー、兵術学校のみんなやウルムの街の人たちの敵。
クラウスは、否定しなかった。
ただ、殺せ、というアリスの命令を拒絶しただけ。
「ユージン、クラウスを、どうするの?」
ローゼマリーが尋ねてくる。
「奥に運びます。こんなところにいさせるわけにはいかない」
「エルヴィちゃんと、アリスっていったあいつは、追いかけないほうがよさそうね」
「はい。俺たちには勝ち目がない」
一瞬で距離を詰め、相手を仕留めてしまう、霞化、と呼ばれた力。あれに対抗する手段はない。外で狼たちに惨殺されたアレンやマクガリフたちと同じ目に遭う。
しかもエルヴィも、敵か味方か判断できない。エルヴィのおかげで、とりあえずアリスによって殺される危機は回避できたわけだけれど、裏にどんな意図があるか。
「とりあえずローゼマリー先輩は、タルム教官への報告を。街にあの狼を放ったらしい人物と遭遇した。これだけでも、味方に共有する必要がありますから」
「……了解よ」
ローゼマリーが、横たわったままのクラウスを見下ろしている。
ユージンは、クラウスを抱え上げた。
「安全な場所に連れていく。起きたら、たっぷりと話を聞かせてもらうからな」
背中のクラウスに、ユージンは語りかけて、歩き出した。避難施設の奥へと続いている扉を開ける。
開けた先に男の子がいて、ユージンは足を止めた。姉のローゼマリーと同じ赤い瞳と目が合う。
「レオン? ここにいたのか」
「嘘でしょ、逃げなかったの?」
ローゼマリーが端末を操作する手を止め、弟に駆け寄る。
「馬鹿、危ないところだったのに。見つかったらどうなっていたか」
ローゼマリーが𠮟りつけ、弟に詰め寄る。手を上げて、レオンをはたくのかとユージンは思ったが、彼女はその手でレオンの頭を撫でた。
「無事でいてよかった」
「ごめん、姉ちゃん。でも心配だったんだ。俺だって姉ちゃんが殺されたら」
互いの無事を確かめ、喜ぶ姉弟。
ユージンは、しかし微笑ましい光景に騙されなかった。
「ローゼマリー先輩、一つだけ聞いてもいいですか」
ローゼマリーの視線が、ユージンを向く。
「なぜ、単独で外を出歩いていたんですか?」
ローゼマリーの赤い瞳に、暗い影がよぎる。
「街を襲った狼の死体を回収するためよ。手がかりがあると思って」
今回の事態は、ローゼマリーが引き起こしたことだ。
おおかた、こんな筋道だろう。外に出ていったローゼマリーを心配して、姉思いなレオンはこっそりと後をつけていった。ウルムの街に潜んでいたアリスは、そんな二人を発見し、レオンを人質に取って、クラウスやエルヴィの居場所まで連れていくようローゼマリーに脅しかけた。
あまりにも、不自然だ。クラウスは街を襲う狼を五頭も屠ったのだ。外を出歩くならば、彼を同行させれば安全。それをせず、あえて単独行動を選んだのは……
「こいつを、クラウスを、敵と疑っていましたね」
ユージンの指摘に、ローゼマリーが皮肉に笑う。
「クラウス君を無国籍者(ステートレス)と呼んで、カルガトのスパイと疑っていたあなたが、そんなことを言うなんてね」
ユージンは、何も言い返せない。
「そうよ。私はクラウス君を疑っていた。だってそうでしょう? あの狼たちと同じように、一瞬で移動していた。普通の人の動きとは思えない。狼たちを放った何者かと繋がっていると思うのが自然でしょう」
ローゼマリーは自白する。その視線は、ユージンの背中のクラウスに。
「でもそのせいで、こんなことになってしまった」
クラウスとエルヴィは記憶を取り戻した。
「みんなを危険に巻き込んだし、エルヴィちゃんもいなくなってしまった。クラウス君だって、これからどうするか……」
ローゼマリーは、レオンの肩を抱いた。どうしたらいいのかわからなくて、弟にすがっているみたいだった。レオンも、「姉ちゃん」とだけ言って、動かずにいる。
「ローゼマリー先輩、今は後悔している場合ではありません。エルヴィの真意はともかく、クラウスも敵と決まったわけじゃない。行きましょう。とりあえず、タルム教官への報告をお願いします」
ローゼマリーはうなずいて、再び無線端末を操作し始めた。
「四年前にお前が叫んでいた名前は、イリヤだったんだな」
ユージンは、背中のクラウスに語りかける。
「すべてが落ち着いたら、お前はあの墓に名前を刻むのか?」
クラウスは、動こうとしない。四年前、意識があるのに動こうとせず、人形のように大人におぶられていたクラウスの様子を、ユージンは思い出していた。
四年前のことを、ユージンはよく覚えている。十二歳の頃、クラウスに出会ったときのことだ。
ウルムの街の外れの森から、子供の声が聞こえた。悲痛な、誰かの人名っぽい、叫び声だった。怪しいと思ったユージンは、大人を引き連れて森の中へと駆け込んだ。そして見つけたのは、血まみれの女の子の遺体のそばで呆然としている、折ったらしい右腕にあて木がされた、同い年くらいの男の子だ。
黒い瞳は虚ろで、さっきまで人の名前、状況からして女の子の名前を叫び続けていたはずだ。なのに、声を出そうとしなかった。ユージンが話しかけても、すぐに反応しなかったくらいである。
普通の子ではないと、何となくでもユージンはわかった。
男の子を発見して数日後。
ユージンは、クラウスが運び込まれた病院に行ったことがある。知らない子の見舞いなんて初めてだったし、緊張はしたけれど、病院で医者のユーリスは笑顔で迎えてくれた。
ユーリスは、発見されたのはクラウスという名前で、折れていた右腕の処置は済ませたこと、体も快方に向かっていて、すぐに退院できそうであることを告げた。
その上で、ユージンのことを誉めた。
――あなたのおかげで、あの子は助かるのよ。
行方の知れなくなった自分の子供を、ユージンが見つけたように喜んでいた。後にクラウスを養子に引き取った理由がわかる。
同時に、彼女から頼まれた。クラウスは自分の名前以外のすべての記憶を失っている。家族の名前や、住んでいる街や村の名前すら答えられなかった。だからクラウスに、安易に彼自身のことを尋ねないようにしてほしいと。
そして病室に通されて、虚ろなままのクラウスの瞳を見たとき、ユージンは思った。
こいつは、すべてを失ったのだと。
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