第29話
クラウスとイリヤは、南への移動を続けた。
クラウスは、進むしかなかった。エルヴィを見捨ててしまい、そして彼女を忘れる罪を、そうしなければイリヤの命がなくなるからという言い訳で取り繕って。
二日、三日と、辛いながらもなんとか移動を続けることができた。森の中を流れる沢で喉の渇きを潤し、偶然見つけることができた木の実で飢えをしのいで、南へと移動を続けていく。幸い、追手に見つかることもなかった。
『白い家』から脱走して、時間がたつと、クラウスは冷静さを取り戻していた。
だから、気づく。
こんな結果になったのは、すべて自分が原因だ。
霞化の力を得るための注射を打った男に、クラウスは手をかけた。右腕を折るのと引き換えに、男は壁に頭を打ちつけた。骨が折れる音がしたし、その後はぴくりとも動かなかったから、無事ではないだろう。
つまりは、殺めたかもしれない。
そしてクラウスは、エルヴィやイリヤの今後を歪めることになった。
『白い家』に捕らわれたままのエルヴィは、これからどうなるかわからない。イリヤは、クラウスもろとも追われる立場になった。二人とも、命の危険にさらしている。アルが死んで取り乱したがために、本来は無関係な二人まで巻き込んでしまった。
そう、全部……
――俺のせいだ。
夜、大樹の根元で体を休めながら、クラウスはつぶやいていた。
――どうしたの、クラウス? 怖そうにして。
隣で横たわったエルヴィが、そっとクラウスの髪を撫でる。悪夢を見たと怯える子供をあやすように。
――イリヤを、こんな目に遭わせてしまった。
当のイリヤは、ふふ、と笑い声を上げた。
――私なら大丈夫よ。正直あんな場所、いつか抜け出したいって思っていたから。
――エルヴィもどうなるか。殺されるかも。
――クラウス、いくらなんでも大げさだよ。
またしても、イリヤは笑う。
――エルヴィは、アリスの妹だよ。パーヴェルと協力して、『白い家』でやっていた実験に加わっていた。アリスのことなら、妹の命は助かるように動くはず。しかも、霞化の実験に使われる子は、エルヴィしかいない。殺されるなんて、ありえないから。
イリヤはそうやって、クラウスにとって都合のいい事実を並べて安心させようとする。
――でも、俺が軽率だったんだ。
――軽率? どこが?
――かっとなって、注射してきた男に手をかけてしまった。あんなことしなかったら、こんなことには。
――アルが殺されたんだよ。あそこで怒らないほうがおかしい。
確かに、アルは殺されたようなものだ。霞化という、得体の知れない力についての実験の被験者にされている。そんなこと、クラウスたちは聞かされていなかった。毎日のように飲まされる薬についてすら、パーヴェルたちはまったく説明していない。
アルの死は、パーヴェルたちによって引き起こされたようなもの。
――もしクラウスが何もしなかったら、きっと私が動いていたと思う。
イリヤはそう言って、クラウスの罪を背負おうとしている。
――なんで、そんなことを言うんだよ。
クラウスに、優しくされる資格などないはずだった。
――あんなひどいことを言ったのに。
――私、怒ってないよ。
――全部、イリヤのせいにしようとしたのにか?
イリヤは、そっとクラウスの頭を撫でた。暗い中で、互いの顔も見えない中、唐突に触れられて、クラウスは声を失う。
――私は、クラウスを許すから。私がこんなことになったのは、パーヴェルたちのせい。クラウスは悪くなんかない。
――エルヴィは?
――私が、エルヴィの分も許すから。エルヴィだって、きっとクラウスが無事に逃げ延びたら安心するはず。
そしてイリヤは、クラウスの頭から手を離すのだった。
――だからさ、今日はもう寝よう? また明日も移動しないといけないし、今はどうせ移動できないんだから、少しでも休まないと。あと、寝ている間に私から離れないで。朝起きたときにいなくなっていたら、わかっているよね?
最後に脅すことも忘れず、イリヤは眠りについたのだった。
『白い家』を抜け出して、四日目。
山間の小さな村を見つけた。だがみすぼらしい格好をした子供が二人だけで村に入れば、怪しまれるだろう。パーヴェルの耳に入れば、追手が来るかもしれない。だから二人は、村人に見つからぬよう、村を迂回して進んだ。
五日目、クラウスとイリヤはヴィランとカルガトの国境に差しかかった。国境の幅二キロに渡って樹木が切り払われた緩衝地帯には、両国の警備兵が目を光らせている。クラウスとイリヤは夜を待ち、そして夜闇に紛れて国境を越えた。
六日目、無理がとうとう限界に差しかかるようになった。足が思うように進まない。どこかの街や村で保護を求めようと思ったのに、なかなかたどり着けず、着いたとしても、そこは十年前の戦争で焼き払われ、そのまま放置された廃村だった。
七日目、ポトリアの効果が、とうとう現れるようになった。
頭が重たい。最初、クラウスはその原因が疲労と空腹にあるのではないかと思ったけれど、それとは違った。脳が麻痺するような感覚。視界も暗くなりかけては明るくなってを繰り返した。
――イリヤ、 もう限界らしい。
隣にいるイリヤに、クラウスは告げた。ずっと覚悟していたことだ。間もなくクラウスは記憶を封じられ、イリヤのことも忘れる。意識を失って、もう一度目覚めたときには、目の前の茶髪の女の子が誰かわからなくなる。そして、君は誰なの?という言葉をかけるだろう。そのときに、イリヤが必要以上に傷つかないように。
――私も、同じ。
イリヤはそう言って、片手で自分の頭を押さえた。
クラウスは左手で、彼女の手を引く。
――急いで街や村を見つけないと。
記憶があるうちに、この国の人に助けを求めなければならない。それが、イリヤを巻き込んでしまったことの、せめてもの責任だ。
だが当のイリヤは、その場に踏みとどまった。
――もういい。急がなくても。国境は越えた。パーヴェルたちの追手はここまで来れない。
――何を言っているんだ、立ち止まるなよ。
クラウスは、イリヤの手を引く。
だがイリヤは、逆にクラウスの体を引き寄せた。クラウスを抱きしめる。
――何をしているんだ。
――へへ。私、一度でもいいからクラウスとこういうこと、してみたかったんだよね。『白い家』だとエルヴィがいるし、アルはうるさそうだったから。
イリヤは笑う。よっぽど嬉しそうだ。
――ふざけるな。こんなことしてる場合じゃない。
――私たちは記憶を失うだけ。きっと互いが誰かわからなくなっても、一緒に助けてくれる街や村を探すはず。
――やめろよ、何が起きるかわからないのに。
クラウスはもがく。だがイリヤは、クラウスを放そうとはしない。
記憶を失い、互いのこともわからなくなる恐怖など、どうでもよさそうに。
――絶対、一緒にいる。離れたりしない。だって私、クラウスのことが……
クラウスは、茂みの向こうに灰色の狼を見つけた。いつから、近くに忍び寄っていたのだろう。こちらを睨んでいる。
それは、『白い家』で見た狼とあまりにも酷似していて。
――……っ! イリヤ!
クラウスは叫ぶが、遅かった。
茂みの向こうの狼は、消えた。
狼は、霞化で移動して、イリヤの背後にいた。息遣いを感じられるほど近くに、口を開けて牙を晒して、そしてイリヤの横腹に咬みつく。
イリヤの肉に牙が食い込み、血が飛んだ。突然の痛みに、イリヤの悲鳴が響く。
それでも彼女は、渾身の力でクラウスを押して引き離した。クラウスは地面に後ろ手をつくが、急いで立ち上がった。イリヤに喰らいついている狼の頭に足を繰り出す。
狼はイリヤを放し、ひらりとクラウスの蹴りをかわした。着地すると、血に染まった牙を剥き出しにしてクラウスを睨みつける。
パーヴェルたちの追手は来ないと、イリヤは言った。
とんだ誤りだった。パーヴェルは、国境を越えられる追手を用意していた。人でなければ、国境を警備している者たちも野生の獣と思い込んでこの狼を見逃す。
追手の狼は、次にクラウスに狙いを定めることにしたらしい。飛びかかろうと四肢をわずかにかがめた。
殺される、とクラウスは思った。負傷した状態では霞化を使えない。激痛にさいなまれるだけだ。
今からこの狼に喉や腹を食い破られる。
だが、イリヤがとっさに、狼の首をナイフで刺した。狼は弱々しくうなると、横に倒れる。口を開けてだらりと舌を出し、四肢は痙攣を始めた。立ち上がろうとしない。
狼を仕留めたイリヤは、膝をついた。そのまま彼女も倒れる。
――イリヤ!
クラウスは彼女のそばでかがみ込んだ。
――痛い! 痛い! ああっ!
イリヤは叫ぶ。ひどい傷だった。イリヤの横腹に穿たれた傷から、血がどんどん流れ出ていく。クラウスはとっさに、着ている服の袖を傷口に押し当てた。とにかく血を止めないと。
だが、血は止まらない。クラウスの服に、血の染みを広げるだけだ。
クラウスは、エルヴィを抱え上げた。
――人が住んでいる場所が近くにあるはずだ。絶対に助ける。
ヴィランに入ってだいぶ歩いたのだ。そろそろ見つかってもいいはず。
――死ぬなよ。
言ったとたん、クラウスは眩暈がした。よろめき、イリヤを落としそうになる。もちこたえて、クラウスは進んだ。
――痛い、うう……ぐっ……
イリヤは、クラウスの腕の中できつく目を閉じていた。血を流し、地面に血痕の列を残しながら、ただクラウスの腕を握りしめる。
クラウスが懸命に走るのをあざ笑うように、いつまで走っても、街や村は見つからなかった。道のない森が続くだけだ。そしてエルヴィは弱っていく。普段は血色のいい彼女の顔は、青白くなっていた。クラウスの腕を握る手からも、力が抜けていた。
それなのに、出血は止まらない。勢いよく流れる一方だ。
――もう少しだ。もう少しで、助けてもらえるから。
嘘も同然の根拠のない言葉で、クラウスは励まし続けた。
だがとうとう、そのときを迎えた。クラウスの視界が、一時だが、完全に暗くなった。体から力が抜け、立てなくなる。イリヤともども、地面に転がった。
――ごめん、イリヤ、落とした。
頭の痛みに耐えながら、クラウスはもう一度、イリヤを抱えて立ち上がろうとする。だが腕に力が入らなかった。彼女を持ち上げることが、できない。
――……も、もう、いい。
イリヤは、そのきれいな茶色い瞳をクラウスに向け、首を横に振る。
――こうなったのは、エルヴィを見捨てた、罰ね。
そうやって、イリヤは笑みを浮かべる。さっきまでとは違う、弱々しい笑顔だ。
クラウスにはそれが、互いが誰なのか忘れるよりもはるかに残酷な別れの予感がして……
――罰なわけがない! そんなことを言うなよ!
クラウスは泣きじゃくり、わめく。
――クラウスは、泣き虫だね。
イリヤも笑みを浮かべたまま、涙を浮かべた。彼女も泣きながら、クラウスの涙を拭っていく。
――ごめんなさい。エルヴィを見捨てろなんて言って、つらい思いをさせて、ごめんなさい。
すべてを諦めきった、達観した声。横腹の傷からの出血は、いつの間にか細くなっていた。傷が塞がっているのではなくて、そもそも流れ出るための体内の血が少なくなったのだ。
――あんたは悪くない。俺が全部悪いんだ。こんなことに巻き込んだ。
クラウスの意識が、遠のいた。視界が一瞬だけ暗くなる。記憶を封じられる瞬間が、近い。
まだだめだ。
――私が死んだ後、ちゃんと助かってね。
イリヤは、自らの死をはっきりと告げた。
――この国の人に匿ってもらって、幸せになること。ちゃんと好きな人、見つけなさいよ。
――だめだ! あんたも助ける。
――私のことは、忘れてもいいから。
――忘れたくない!
イリヤは、もう一度クラウスの頬に触れた。
――でも、やっぱ、最期くらいはこうしたいな。私の好きな子、だもん。
イリヤは、身を起こした。小さな唇をクラウスの頬に押し当てる。死の間際の、最後のわがままとばかりに。そして笑みを浮かべたまま、再び横になる。
そのまま目を閉じた。
イリヤが、死んだ。
――イリヤ!
力尽きた彼女の名を、クラウスは叫んだ。何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、イリヤの名前を叫び続けた。
記憶が封じられていく中で、せめてイリヤの名前は覚えておくために。
声が嗄れたところで、クラウスはのろのろと立ち上がった。
一歩でも引き返せば自死する。イリヤにそう脅されてヴィランとの国境を越えたけれど、その彼女は死んでしまった。もうエルヴィの元へ戻るのを邪魔する者はいない。
――パーヴェル……!
嗄れた喉で、恨む名をつぶやく。アルを弄んで死なせただけでなく、イリヤにも悲惨な死をもたらした男。
絶対に、許せない。彼の元に、エルヴィをいさせるわけにはいかない。
北にある、『白い家』に向けて、クラウスは足を踏み出す。
だがエルヴィを取り戻すための旅は、一歩で終わりを迎えた。クラウスの視界が暗くなり、足から力が抜けて、うつ伏せに横たわる。
意識が消えていく。記憶が封じられていく。クラウスは歯を食いしばり、北に向けて、自分の足跡と、エルヴィの血痕の列に向けて手を伸ばした。諦めない。記憶の砂時計の、その最後の一粒がこぼれ落ちる瞬間まで、絶対に。
エルヴィを……取り戻す。
エル……ヴィ、エル……、エ……
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