第28話
それからクラウスは、長らくイリヤの背に運ばれたのかわからない。
『白い家』を出るまでは、意外とあっさりとしていた。そこの大人たちがイリヤとクラウスを見つけ、止まるよう言いつけたりすることはあったが、手を出して直接止めようとはしてこなかった。
きっと、霞化の脅威があるからだろう。イリヤはナイフを持っていたし、下手に手を出そうとしたら、返り討ちに遭う。
『白い家』を出て、森の中を止まらずに走っていく。日が傾き、森の中が薄暗くなってきたところで、イリヤは足を止めていた。背中のクラウスを、地面にそっと降ろす。
――奴らから逃げ切ったみたい。ごめんね、クラウス。骨が折れたみたいなのに、無理をさせて。
――何だと?
クラウスは、イリヤの言葉に食らいついた。逃げ切った?
本当に、逃げ切ったと言えるのか?
――エルヴィのこと、忘れたのか。見捨てておいて、そんなことを言うのかよ。
だが、イリヤは聞かない。
――すぐ処置をするから。
イリヤはそう言って、ナイフで近くの木から太めの枝を切り取った。長さを調整して、クラウスのところに戻ってくる。
――粗末だけど、何もしないよりまし。
イリヤは、自分の着ている上着を脱いだ。長袖の部分をナイフで切り取る。
その上着の切れはしで、クラウスの折れた右腕に木の枝を巻きつけようとしたとき……
クラウスは、左手でイリヤの手を掴んでいた。
――イリヤ、聞けよ。どうしてエルヴィを見捨てたんだ。
――ああなったら、助けられなかった。
――エルヴィがあそこに残ったら、どうなるかわかっているくせに。
――あの子も助けようとしたら、みんなパーヴェルに捕まっていたわ。
――黙れ。
折れた右腕がうずき、クラウスは痛みに目をつぶる。
イリヤは、すかさずクラウスの右腕を持った。取ってきた木の枝を腕に当てて、上着の切れ端を包帯にしっかりと巻きつけて縛る。
――このまま逃げるよ。南に向かう。
イリヤは、クラウスに今後のことを伝えた。
――ヴィランに入って、助けを求めるの。ポトリアの効果で記憶はなくなってしまうでしょうけど、中和剤は飲んだばかりだし、一週間はもつ。敵国だって言われているけど、カルガトに残ってパーヴェルの追手に捕まるよりはましでしょうから。
イリヤはいるべき人が一人欠けた状態で、今後のことを口にする。
――そうやって、エルヴィを見捨てるのか。
痛みが少しだけ楽になったところで、クラウスは引き続き、イリヤを責め立てる。
――このままだと、エルヴィのことも忘れるのに。
――……そうよ。こうなった以上は、仕方がない。
クラウスは、立ち上がった。来た方向に目を向ける。
――どこに行くの? クラウス。
――『白い家』に戻る。
――だめよ。戻ってもまた捕まるだけ。
――エルヴィを見捨てたくない。あいつも一緒に連れ出すんだ。
――戻すわけにはいかない。
イリヤは、クラウスの背を掴んだ。
――放せ。そんなに行きたいんだったら、一人で行けばいいだろう。せっかく自由になったんだから。
もう一度、イリヤを振り払った。そのまま『白い家』のほうへと足を踏み出す。計画なんてなかった。『白い家』に戻っても、片腕が折れた状態では捕まるだけ。
それでも、エルヴィを諦められなかった。あんなところにいさせたくない。絶対に、助け出してみせる……
――私が死ぬことになっても?
イリヤの言葉に、クラウスは立ち止まった。振り返って、彼女のほうを見つめる。
イリヤは、アリスから奪ったナイフの切っ先を、自分の喉元に向けていた。
――何をするんだ! やめろ!
思わず、クラウスは叫んでいた。イリヤは、自らの喉元にナイフを突き立てたまま言った。
――これからは、もし一歩でもあそこに戻ろうとしたら、私はこれで自分の喉を切る。
イリヤは自らの命を質にした。
――どうして?
――クラウスをあそこに戻すわけにいかない。
――今一番危ないのはエルヴィだ。
――それで助けようとしたら、クラウスが殺される。私、クラウスのことを見捨てて自分だけ生き延びようなんて思わない。だから、それ以上は戻らないで。
クラウスは、それでも『白い家』のほうを気にする。するとイリヤは、握っているナイフをさらに喉元に近づけた。目に大粒の涙を浮かべていても、切っ先は震えていない。
クラウスが選ぶ道は二つだけ。イリヤとともに生き延びてエルヴィを見捨てる道と、イリヤが死に、自分までエルヴィともども破滅を迎えるという道。
――あんたは、卑怯だ。
クラウスは、イリヤを呪うことしかできなかった。逆らうことはできない。クラウスだって、イリヤに死なれたくないから。
――どうせエルヴィのことも忘れるくせに。
たくさん、エルヴィと笑い合っていたくせに、友達の顔をしていたくせに。
都合が悪くなったら、見捨てる。そしてのうのうと生き続ける……!
――ええ、そうよ。いっそ忘れてしまえばいいかもね。余計なことを……考えずに……済むか、ら。
イリヤは頬を流れる涙を拭おうともせず、冷酷になりきれぬまま、言ってのけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます