第27話
――拒否反応か。
パーヴェルは、ふとつぶやいた。
その言葉に、クラウスが反応し、立ち上がる。
――どういうことだ。
――一瞬で一定距離を移動できる。そんな霞化を使えるようになるのに、人体に負荷がかからないわけがないだろう。
――どうやら、投与した薬を服用していなかったらしい。
注射を打った男が、空の注射器を持ったままアルを見下ろしている。
クラウスは、アルが飲まされた錠剤を舌の下に隠し、部屋で吐き捨てていたのを思い出した。
まさかあれは、拒否反応が出ないための薬?
――こいつは失敗だ。処分はどうします?
パーヴェルに伺いを立てる男に、クラウスは拳を握った。
今、この男は何と言った?
処分、と言った。さっきまでいつもどおりに話していた、クラウスにとって唯一の同性の友達のことを、物のように、ゴミでも見るように。
――黙れ。
クラウスは言い、念じた。
世界が、止まる。エルヴィもイリヤも、離れた場所から見守っているアリスも、パーヴェルも、彫像のように動きを止めている。
そしてクラウスが怒りを向ける、白衣の男も、上司のパーヴェルに目を向けたまま、動きを止めていた。
停滞した世界の中で、クラウスは動き出した。白衣の男と距離を詰めていく。その男は無防備にも、腹をクラウスにさらしていた。逃げようともしない。
これは、便利だ。
霞化を使えば、仕留めたい相手と簡単に距離を詰められる。攻撃も思うがままだ。
まずはアルが苦しみ倒れるきっかけを作った、あの白衣の男を。
その後で、こんなことを命じたパーヴェルも。
クラウスは右手の拳を固めた。いまだ動かぬ白衣の男の腹に向けて、拳を繰り出す。
……当時のクラウスは、霞化について知らなすぎた。
いくら一瞬で一定距離を移動できるといっても、物理的に移動しているにすぎない。そして人の目で捉えきれない速度で動いている状態で、もし何かの攻撃を仕掛けた場合、自らに跳ね返る力も莫大なものになる。
そのことも知らずに、クラウスは白衣の男の腹に自分の拳をぶつけた。
世界が再び動き出す。
何かが砕ける湿った音と同時に、白衣の男が後ろへと飛ばされた。壁に頭から叩きつけられ、首の折れる音を響かせると、動かなくなる。
同時に、クラウスは自分の右腕を押さえて床の上に倒れ、叫んだ。
――痛い!
霞化により銃弾よりも速くなった拳を白衣の男にぶつけて、衝撃に耐えられないまま右腕の骨が折れたのである。
――クラウス、腕が……どうしたの?
エルヴィが駆け寄ってきた。クラウスは痛みのあまり、彼女の声に応じることができない。
そしてもう一人、近寄ってくる者がいた。成り行きを見守っていた、アリスである。
――クラウス、ここの者を傷つけたな。
床の上で苦しむクラウスは、アリスの青い瞳を見上げた。青い瞳は、冷たかった。
――姉さん、クラウスを助けて。腕が折れているみたい。
エルヴィが哀願する。だが
――アリス、クラウスを処分しろ。
パーヴェルの命令が冷たく響いた。
――どういうことだ? クラウスは貴重な被験者。むやみに手にかけるのは。
アリスは抗議するが、パーヴェルは聞き入れようとしなかった。
――他の班員を傷つけるかもしれない。不穏分子は、早いうちに排除したほうがいい。
パーヴェルの声が響く。
――クラウスを、殺すの?
エルヴィの声が震えた。
――そうだ。殺せ。
パーヴェルに重ねて命じられ、アリスは歯を食いしばりながら、ゆっくりと懐からナイフを取り出した。いつも隠し持っていたのだろう。クラウスたちの誰かが『白い家』と敵対する行動を始めたとき、速やかに始末するために。
霞化があれば、銃など必要ないとばかりに。
動かないと、殺される。
クラウスは、霞化をもう一度使った。あれを使えば確実に逃げられる。
だが世界を停滞させたと同時に、クラウスの右腕にさらなる痛みが走った。悲鳴を上げ、霞化が解除される。
パーヴェルが鼻で笑った。
――アリス、やれ。
――クラウス、すまない。
アリスはそう言って、痛みに動けないクラウスの喉元に向けてナイフを振り上げる。
だが、アリスは、ナイフを突き立てることはできなかった。
霞化で背後に回り込んだエルヴィに、後ろから羽交い絞めにされていたからだ。
――エルヴィ、何がしたい?
――イリヤ、クラウスを連れて逃げて。
エルヴィは、姉を拘束したまま叫ぶ。
――でもエルヴィは!
――私はいいから行って。ここにいたら殺される。
エルヴィとイリヤが押し問答している間に、クラウスは気づいた。パーヴェルが、こっそりと懐から銃を取り出している。
――パーヴェルが……危ない。
クラウスが痛みの中で声を出す。イリヤは危険に気づいて、霞化を使った。パーヴェルの目の前に現れる。そのまま、膝で彼の腹を蹴り上げた。パーヴェルがうめき、銃を床に落とす。
イリヤはその銃を蹴って、離れた場所まで転がした。そしてアリスのところに駆けつけ、勢いよく肘を打ちつけた。アリスがナイフを落とすと、イリヤはそれを拾い上げ、口に咥える。
そして、アリスを抱えたままのエルヴィを無視して、クラウスの体を背負った。
――待って、エルヴィは……?
痛みの中で、クラウスは問う。
だがイリヤは答えなかった。ナイフを咥えている彼女は、そのまま地上に続く階段へと走り出す。
――エルヴィ……!
クラウスは呼びかけるが、イリヤは止まらない。イリヤの背から降りて、エルヴィのところに行きたかったが、痛みで体が動かない。
エルヴィを取り戻したい。自分たちのことを物としか扱っておらず、抵抗したクラウスは即座に殺そうとしてきた連中がいるところに、エルヴィだけ残したらどうなるのか?
だがイリヤは止まらない。
クラウスを背負ったまま走り続ける。
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