第26話
イリヤは、結局は何ら異常もなく戻ってきた。昨日までと同様に、エルヴィの部屋に戻されている。
赤い液体を注射されただけだという。でも、ベッドに腰かける彼女の顔は深刻だった。怯えて、瞳や体が震えている。
イリヤがあまりにも怯えているから、クラウスやアルも部屋に呼ばれていた。同じ部屋で過ごすエルヴィだけでは、イリヤを落ち着けさせることはできそうになかった。むしろエルヴィも、不安が伝染して重圧に押しつぶされそうな状態だった。
――パーヴェルもアリスも、みんな動かなくなった。世界が止まったっていうのかな。私だけが身動きできて、すごく不気味だった。
ひとしきり体を震わせた後で、イリヤは話し始める。霞化が使えるようになった、最初の体験だった。
――それで、体に異常はないの?
――何も。ちょっと頭がくらってなっただけ。でも、私、これからどうなるのかな?
イリヤが自分の体を抱える。さながら、自分が不気味な化け物となってしまったように。
人の目には捉えられないほどの速さで移動する力を得たのだ。どんな副作用が出るかわかったものではない。霞化を使うことで、体への負担がどれほどのものか。使いすぎたら、どうなるのか。
それよりも。
――パーヴェルの目的がわかったよ。
不安に耐えながら、あの男に警戒するようイリヤは促す。
――私、あの男に言われた。パーヴェルは、私たちを戦場に連れていくつもりだ。銃弾に当たらないのをいいことに、戦わせるつもりだよ。
様子見ということで、イリヤは数日、普段と変わらぬ日々を過ごした。結論からいうと、イリヤの体に異常は出なかった。霞化が使える処置を施される前までと、同じように過ごしている。
不安のせいで、イリヤの口数は減ってしまったが。
三日がたったところで、今度は他の三人が、パーヴェルによって呼び出された。
自分たちの体にわけのわからない処置をされるのである。アルは、逃げようとした。とっさに取り押さえたアリスの手を振りほどこうともがく。
――ポトリアの中和剤を絶たれても、いいのか。
パーヴェルの脅しで、アルは動きを止めた。
――でも……。
アルは、迷っていた。記憶をすべて失うか、体を弄ばれて、わけのわからない力を手にさせられるか。どちらを取るか。
見ていて、クラウスは苛立つ。騙された、という気分だった。
――霞化で、俺たちに何をさせるつもりだ? どうしてこんなことをする?
――イリヤから聞いているはずだ。いずれ戦火にさらされたときのためだと。
パーヴェルは答える。
――アリス、あんたはどうなんだ? 妹も実験に使われて、本当にいいのか?
――クラウス、その問いを私にぶつけるとはな。
アリスが、呆れた。
アリスが意識をクラウスに向けているから、アルの手首を掴む手が緩んだらしい。アルは、アリスの手を振り払った。走り出して、どこかへ逃げようとする。
捕まえろ、とパーヴェルの部下が叫ぶ。
だがアルは足が速い。パーヴェルの手を振り払うと、廊下を駆けていく。玄関のほうへ。このまま外に逃げるのかもしれない。
だが、アルの足が止まった。
目の前に手を振り払ったはずの、アリスが立っていたからだ。
――いつの間に。
アルが動揺している間に、アリスは再び、その腕を掴んでいた。
――エルヴィは、私と同じになるだけだ。私も霞化を使いこなしているというのに、何を恐れているんだ?
知らなかった。アリスが、あの狼たちと同じ力を使えるなんて。では、いつの間に?
――逃げるのは、許さない。
再び、実験室にクラウスたちは入れられた。クラウスはエルヴィ、アルと並んで座らされている。
傍らには、イリヤもいた。心配だからと、見学を申し出ていたのである。
クラウスの前に、『白い家』の白衣の服を着た男が立つ。金属製のトレーに載せられているのは、赤い液体の入った注射器だ。男はテーブルの上に金属のトレーを置くと、注射器の一本を取った。声をかけることもなく、片方の手でクラウスの腕を掴むと、そのまま注射を済ませてしまう。
注射の針が刺さる痛みはあったが、それだけだった。イリヤが言っていたとおり、注射の針が抜かれると同時に頭がくらっとして、頭を押さえたが、それ以外の体の異変はない。
――大丈夫か?
隣に座らされたアルが声をかけてくる。
――頭、痛いの?
エルヴィも声をかけてきた。クラウスは頭から手を離す。
もう、頭のくらつきもなくなった。
――大丈夫。すぐよくなった。
クラウスは言いながら、違和感を抱く。本当に、これで霞化を使えるようになったのか。檻の中の狼や、アリスと同じになったにしては、やけにあっけなさすぎる気がする。
――次はエルヴィだ。
パーヴェルが告げる。白衣の男は、空の注射器と次の注射器を持ち変えると、エルヴィの前に立った。腕を取り、その腕に赤い液体を注射する。
エルヴィも、クラウスと同じ反応をした。自分の頭を押さえただけで、後はしれっとしている。
――アル。
パーヴェルの声に、白衣の男は、三本目の注射を持って、アルに歩み寄っていった。
クラウスやエルヴィが注射を打たれても、平気でいたのだ。アルは真顔を保っていた。ただ膝の上に置いた拳を固く握っているだけだ。いったんは逃げようとしたとは思えないほど、おとなしい。
だからクラウスもエルヴィも、黙って成り行きを見守っていた。
アルの腕にも、注射の針が刺される。
赤い液体が、アルの体の中に入れられていく。
異変は、すぐに起きた。
アルの両手が震え始めた。次には、アルは自分の胸を押さえる。
――どうした?
クラウスが尋ねたとき、アルは前に倒れた。床の上でもがき、足をばたつかせる。目を苦しげに閉じていた。その口から漏れるのは泡と、うめく声。
――おい、しっかりしろ。
クラウスは、アルの肩を揺さぶる。彼の体は大きく震えていた。
――アル、どうしたの?
エルヴィも倒れたアルのそばに駆け寄った。
――アル!
離れた場所に立っていたイリヤもアルに駆け寄る。
三人に囲まれても、アルは痙攣を続けていた。目の焦点も合っていない。
おかしい、とクラウスは思った。自分には何の異常も起きなかったのに、どうしてアルだけこんなに苦しそうにしているのか。
――アル、しっかりして!
エルヴィの声で、クラウスは我に返った。
――とにかく呼吸を楽にしないと。どいて。
クラウスは、アルの着ている服の第一ボタンに手をかけた。アルの体が激しく震える中で、苦労しながらそのボタンを外す。
そこで、アルの震えが止まった。胸を押さえていた手も、だらりと床の上に転がる。
だが同時に、
――アル息してないよ!
イリヤの声が響く。とっさにエルヴィも、アルの胸に触れた。
――脈もない。
クラウスは、目の前に横たわるアルを見つめた。
死んだ、というのか。
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