第25話
『白い家』でのクラウスは、四方五メートル程度の、広くも狭くもない部屋を与えられていた。無機質な部屋だった。窓は小さな採光窓があるだけで、しかも格子が嵌められていた。出入口の扉は金属製。
床は木で、二台のベッドと、勉強などをしたりするためのテーブルがなければ、牢獄のように見えなくもない部屋だ。ここに、アルと一緒に暮らしていた。ちなみにエルヴィは、似たような部屋でイリヤと一緒である。
アルは、部屋に戻るやいなや、洗面台に向かった。口から白いものを吐き出す。
――はー、怪しいったらありゃしない。
アルはそう言って、口から吐き出したものを水で流していく。
――また、吐き捨てるのかよ。
クラウスが半ば呆れて言う。アルが吐き捨てたもの、それはさっきパーヴェルから飲むよう指示を受けた、あの錠剤である。
――だって怪しいっての、飲んだらどうなるか。
いつもそうだった。アルは、『白い家』で出される錠剤を飲むふりをして、舌の下に隠し、そして大人の目につかないここで吐き捨てる。
――俺もエルヴィやイリヤも、ちゃんと飲んでいるけど何にもないぞ。
――嘘つけ。最初の頃は頭くらくらしたり、熱が出たりしてただろ。
――あれもすぐによくなったし。
――とにかく、俺は変なのは飲まない。バレるまでずっとだ。
アルは、変な意地を張る。
――ポトリアの中和剤は、素直に飲むのにな。
クラウスは、瓶に入ったあの薬のことを言った。あれだけは、アルもちゃんと飲んでいる。飲んだふりをしてやり過ごそうとしたことなど、クラウスは見たことがなかった。
――あれは、飲まないとなんもかも忘れるから。仕方がなくだよ。
――薬吐き捨てていること、バレたら中和剤もらえなくなるかもよ。
クラウスは、部屋の扉がしっかりと閉まっているのを確認して、こっそりと言う。万が一にも、外の廊下を歩く者に聞かれないように。
――ずっとこうしてっけど、バレたことは一度もないだろ。まさかだけど、クラウスはこのことバラしたりは。
――しょうがないな。俺は何も見てない。
――ありがと。
にっとアルは笑う。
――ところでアルは、気にしたことある? 俺たちがここにいる理由。
クラウスが懸念を口にする。
――ん? なんで?
アルはきょとんとしている。
――変だと思わないのかよ。わざわざ放っておいたら記憶が飛ぶ薬を打たれて、ここでやっていることは普通の子供と同じことだぞ。
勉強して、運動して、時々自由な日を与えられる。パーヴェルたち、灰色の制服を着た大人たちが常駐して、何か物々しい雰囲気すらあるのに、実際には平穏に過ごしている。
変わっているところとすれば、日々何かの薬を飲まされていることくらいだ。
ポトリアによって記憶を質に取られているとはいえ、逆らいたくなることはされていない。
――あんまり、気にしたことないな。
アルは相変わらず、どうでもよさそうな顔だ。
――でも、戦うことになるって。それと俺たちがここにいる理由と関係が。
――はったりだろ。戦争があって、大人たちもいろいろ怯えているんだ。どうなるかわからないことに頭使うなよ。わかったら早く寝ろ。あんまり夜更かしはできないだろ。ところでさ、俺からもいいか?
アルは、顔を赤くした。
――何だよ。
クラウスは、変なことを聞かれないかと警戒する。
――エルヴィとお前の関係、どうなってるんだよ。今日も手を繋いで帰ってきたし。
――あいつもあいつで、色々不安がってるんだよ。
――今日は二人きりだったし、何を話していたんだ?
――ここに来る前のことだよ。誕生日はどうやって祝ってもらっていたかとかな。
――本当にそれだけなんだよな。
――あまりしつこいと怒るぞ。
『白い家』で行われている実験の全容は、ある日突然に明かされることになった。
――今日は、お前たちに見てもらいたいものがあるんだ。
とある日、『白い家』のとある部屋で、アリスはクラウスたちにそう告げた。
――見せたいものって?
エルヴィが、姉に向けて問う。
――本当は連れ込むべきではないという意見もあったんだが、いずれ関わってくることだし、見せたほうがいいと思ってな。私の方から、パーヴェルに進言したんだ。
パーヴェルは、『白い家』にいる大人たちに色々と指示を出したりしているから、そこの代表のような立場である。そんな人を呼び捨てで呼んでいるあたり、アリスは『白い家』で相当な立場にいるらしかった。
――パーヴェルも同意してくれた。これから見せるものは、お前たちにとって有意義なものになる。
――だから何を見せるって言うの?
はぐらかしてばかりの姉に、エルヴィは問いを重ねる。
アリスは、妹に、妹と同じ青い瞳を向けた。
――ここで行われてきた実験の、ひとつの成果だ。すぐにわかる。さっそく、地下に移動しようか。
――地下に行くのか?
アルだけが、陽気なことに期待に目を輝かせた。
クラウスたちがいたのは、あくまで『白い家』の地上部分だ。地下に続く階段があることはクラウスたちは知っていたものの、頑丈な金属扉に阻まれている上に、電子錠が施されていて、入ることができなかった。
――ああ、今からそこに向かう。あと、イリヤ。
アリスに呼ばれて、イリヤは顔を上げた。
――何?
――お前は後で、私と付き合ってほしい。ひどい目には遭わないから。
――……はい。
――じゃあ移動しようか。私についてきて。
アリスに導かれるまま、クラウスたち四人は廊下を歩いて行く。そして、突き当たりにある金属扉の前に立つと、アリスは電子錠を解除しにかかった。
――クラウスは、故郷の街をヴィランの空爆によって焼かれたな。
電子錠を解除しながら、アリスは過去を持ち出してくる。
――アルは壊滅した街から避難している最中に、ヴィランの陸上部隊によって襲われ、イリヤは目の前で両親を惨殺された。そうだったな?
電子錠が開いた。金属扉が重たい音を立てながら開く。その向こうは階段になっていて、奥から冷たい風がクラウスたちに吹きつけてくる。
――そして私とエルヴィが暮らしていた村も、全滅させられた。ヴィラン軍によって、戦いに関係ない人間の家を次々と焼いて、生き残ったのは、私たちふたりだけだ。
――姉さん、どうしたの? いきなりそんなことを話し始めて。
エルヴィが、不安げにアリスに問いかける。
――……入ってくれ。このまま下に降りる。歩きながら話そう。
アリスは、妹の問いに答えることもなく、階段を降りていく。
――クラウス。
エルヴィは、クラウスに向けて手を差し出してくる。クラウスはいつもどおりに、エルヴィの手を取った。
いつもならば、アルが顔を赤くし、イリヤはいちゃつくなと引き離そうとするところだ。だがアリスの不穏な言葉に二人も声を失っている。
――行こう。俺たちに断ることなんてできない。
クラウスは、エルヴィの手を握ったまま歩き出した。先を行っていたアリスに追いつく。
――で、何が言いたいの? 昔のことを言い出して。
アリスに向かって、今度はクラウスが問いかける。
――憎いだろう。
――憎い?
――お前たちの日常を奪った連中が。彼らが何もしていなければ、お前たちはここにいなかった。故郷で、思いのままに暮らしていた。
落ち着いて話されるアリスの言葉には、かすかに怒りも感じられる。普段は温厚なアリスが今は怖くて、クラウスは何も言い返せなかった。
――私も、故郷を焼かれた者の一人だ。妹を守るだけで精一杯だった。何せ、私はそのとき十歳だったからな。彼らは子供の私たちですら、殺そうとした。お前たちもそうだ。家族や友人ともども殺されていたはずで、生きてここにいることのほうがおかしい。
階段を降りきった。薄暗い照明に照らされた通路の先には、もう一つの金属扉がある。
その手前に、パーヴェルが待ち構えていた。
――そしてお前たちを殺そうとした連中は、いまだに我々を狙っている。殺そうと企んでいる。
パーヴェルが、アリスの言葉を継いだ。
――ヴィランは、いずれ我々に再び戦いを仕掛ける。この国で街や村を焼こうとしている。
この『白い家』で、繰り返し言われてきたことだ。敵はいまだに存在している。平和になったわけではない。いつかクラウスたちも、再び戦火に巻き込まれる日がくる……。
そうやって、恐怖を煽られてきた。
――だが、お前たちは彼らに殺されない。
暗い未来を語った後で、パーヴェルは希望を語る。
――どうして?
クラウスが尋ねると、パーヴェルは金属扉に向き直った。
――この先に行けば、わかる。
パーヴェルは、金属扉を開けた。
扉の向こうから、冷たい風と、獣くさいにおいが漂ってくる。
やがてクラウスたちは、においの正体と相まみえる。
狼だった。クラウスやアルに与えられた部屋と同じくらいの広さの檻の中に、灰色の狼が一頭いる。パーヴェルたちに気づくと、立ち上がった。全身の毛を逆立てて唸る。
――何、これ?
エルヴィが怯え、握っているクラウスの手をさらに強く握る。
――こいつはただの獣じゃない。
パーヴェルは言って、懐から銃を取り出した。銃口を狼の眉間に向ける。
――何を……
するつもりだ、とクラウスが叫びかけたときには、パーヴェルは引き金を引いていた。けたましい銃声に、クラウスは目を閉じる。
わけがわからなかった。『白い家』の地下に狼を飼育していることもそうだけど、いきなり殺すだなんて。
――死んでなどないよ。
パーヴェルの声に続いて、狼の威嚇音が聞こえた。クラウスは目を開けて、檻の中を見る。
パーヴェルが放った銃弾は、檻の中の床をえぐって、煙を上げていた。そして撃たれたはずの狼は、檻の片隅にいた。毛を逆立てたまま、パーヴェルに向けて唸っている。
――狙いが逸れたのか。
クラウスは思ったことをそのまま言った。
――目を閉じていたから、わからなかっただろう。もう一度だ。
パーヴェルは、もう一度狼に向けて銃を向けた。引き金を引く。再び目を閉じそうになるのを、クラウスは我慢する。
狼が、消えた。パーヴェルの放った銃弾は、背後の壁をえぐった。
狼は、元いた場所から三メートルほど右方にいた。牙を剥き出したまま、殺気のある目をパーヴェルたちに向けている。
――四人とも、見たか。
パーヴェルは、銃を懐にしまった。
――狼、消えてた。
アルはつぶやく。
――一瞬で、動いていたよね。
イリヤもつぶやいた。クラウスの見間違えなどではない。
――霞化だ。
パーヴェルは、その力の名を口にした。
――この力を使えば、一定距離を一瞬で移動できる。銃弾をかわすのも容易だ。この狼にとって、私が放った銃弾はゆっくり動いて見えただろう。人が歩くくらいに。我々は、彫像のように止まって見えたはずだ。
説明するパーヴェルの背中に向かって、狼が飛びつこうとする。だが檻に阻まれていた。
――もっと幼い頃、君たちは戦火にさらされた街や村をさまよった。銃弾が飛び交い、敵の兵が迫ってくるところも見たはずだ。この力を使えば、銃弾になど当たらなくなる。敵兵を殺すなどもっと簡単だ。
パーヴェルはそうやって、クラウスたちを戦場に放り込むことを示唆してきた。
――この力を、君たちにも身に着けてもらう。まずは、イリヤからだ。
言われて、イリヤの目が凍りついた。
アリスが、背後からイリヤを抱えた。声を失った彼女を、クラウスは助けようと動く。だが一歩を踏み出す前に、パーヴェルに手を掴まれていた。
――何をするつもりだ。
――別に、大した負担になることではないよ。
気がつけば『白い家』の大人たちがクラウスたちを囲っていた。イリヤがアリスによって連れていかれるのを、他の子たちが邪魔しないように。
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