第23話 失われた四年前までの記憶という名の物語
十年くらい前の、いつか。
カルガトのどこかの、火の海となった街で、クラウスはとある男に拾われた。
黒く長い髪で顔の半分を隠し、片方の黒い瞳を陰湿に光らせていた男の名前は、パーヴェル。
パーヴェル・レオニート。
クラウスの人生を歪めた男の名前だ。
街でパーヴェルに拾われてから、クラウスは車の中で本当の家族の名前を呼んでいたような、気がする。寂しさのあまり泣き続けた記憶が、うっすらとある。
そしてパーヴェルは、そんなクラウスに優しい言葉をかけていた、と思う。どんな言葉だったのかは、覚えていない。
車が森の中の、誰かの別荘にも似た白い建物の前に着き、クラウスはそこに入れられた。四年前、クラウスがウルム市近郊に現れる前に暮らしていた場所である。
『白い家』、アリスやパーヴェルたちは、建物のことをそう呼んでいた。正式名称が別にあると思われるが、クラウスは知らない。
『白い家』で最初に受けたのは、注射だった。建物に入ったとき、突然、白い服を着た大人たちに囲まれた。体を掴まれ、動けないまま腕に細く光る針を打たれた。
体に入れられたのは、緑色の液体。
――これから君は、私に逆らえなくなる。
注射を終えたパーヴェルは、そう言った。
――ポトリアだ。これから私の言うことを聞かない場合、もしくはここから逃げた場合は、君から自分の名前以外のすべての記憶を失うことになる。
時が変わって、四年と少し前。
――クラウス。
エルヴィに名前を呼ばれて、クラウスは振り返った。
エルヴィは、左手を前に出している。
彼女が不安を訴えていることの、合図だ。
――仕方がないな。
クラウスは足を止め、自分の右手を出して、エルヴィの手を取った。二人で手を繋いで歩いていく。
ここは森の中だ。クラウスとエルヴィは、そこを流れる小川のほとりで一日を過ごした。
もう日が傾いている。木々の陰も、横に長く伸びていた。
――なんか、子供みたいだね。こんな風にクラウスに甘えて。
エルヴィは恥ずかしそうに言っているけれど、少し笑っている。
――恋人みたいだね、って言ったらどうだ。そのほうが大人っぽい。
エルヴィは頬を染めた。
――もう、ふざけないでよ。
頬を膨らませ、そしてクラウスの手を思いっきり握りしめてくる。
――いたっ、痛いって。悪かったよ。
エルヴィは、意外とあっさりと手の力を抜いた。
二人は引き続き、手を繋いだまま歩き続ける。
――今日もたくさん話したね。
――ああ、話しすぎて、ちょっと喉が痛い。
エルヴィの小さな、熱いくらいに温かい手を握りながら、クラウスも応じる。
――私ばっかり盛り上がっちゃった。クラウスにいろいろ聞きすぎちゃったね。
――いいんだよ、俺だって楽しかったんだし。
実際に、小川で話す時間は、楽しかった。人が来ないその場所に二人きりでいると、隠れ家にいるみたいで落ち着いた。邪魔が入る心配がないから、エルヴィといろんなことを話せた。
――クラウスのお母さんの話、楽しかった。
エルヴィが森の人気のない場所にクラウスを連れ込んでは、こんな風にクラウス自身の話をせがむ。
クラウスが育った街のこと。家族のこと。一緒に遊んだ友達のこと。朝起きたときに、クラウスの母はどんな言葉をかけてきたのかとか、家に帰るのが遅れたとき、父はどんな風に叱ってきたのかとか、誕生日はどう祝ってもらったのかとか、とにかく、家族についていろんなことを話した。
――誕生日のときのクラウスのお母さん、すごいね。テーブルが埋まるくらいに料理作るなんて。クラウスを太らせるつもりだったんじゃないの。こんなにほっそりしてるけど。
――料理とか、好きだったんだよ。誕生日くらいはってやつ。
戦時の食糧難で、普段はそんなにたくさん食べられなかったけれど。
――私も料理、もうちょっと作れるようになりたいな。
――俺の誕生日、いつなのかわかるのかよ。
――冬の盛りを過ぎて、少し寒さが和らいだ時期、でしょ。
生まれ育った街が戦火に飲み込まれ、『白い家』に連れ込まれたとき、クラウスはまだ日付の概念があやふやなほど幼かった。しかも『白い家』では誕生日を祝ってもらえないどころか、誕生日の日付すら教えてもらえない。だから誕生日がいつかまでは、忘れてしまった。
完全に失われてしまった記憶は仕方がない。だがエルヴィは自分のこれまでを話すのと引き換えにして、こうしてクラウスに『白い家』に来るまでの話をせびっていた。
話に出てくる人物は、もう死んだか、生死を確かめる術もない者だ。それでもエルヴィは、大事な記憶だからと話すのをやめようとしなかった。
――今度の冬は、たくさん作ってクラウスに食べてもらいたいな。私、十二歳だし、そろそろ大人みたいなこともできないと。
どうやら、クラウスの忘れられた誕生日を祝うつもりでいるらしい。
――これだけは言える。誕生日はずっと前に過ぎたっての。
クラウスはつい意地を張ったけれど、エルヴィが作った料理の味を想像して、食べたい、と思ったことは内緒だ。顔がほてったのも、暑くなっていたせい。
――これから夏だっていうのに、気が早いな。
――楽しみが増えるんだから、悪くないでしょ。
エルヴィは、笑顔を浮かべている。クラウスと繋いでいる手も、ぶらぶらと大きく揺らしていた。明日が、そのクラウスの誕生日だとでも言いたそうに。
――そもそも話のきっかけは、エルヴィの誕生日なのに。
春が過ぎて、暑くなる時期に、両親や姉のアリスが村の他の子を呼んで誕生日を祝ってくれた。話のきっかけは、そんなエルヴィの幼い日のひとときだった。
――クラウス、私に誕生日のプレゼント、くれるの?
エルヴィが、青い瞳をクラウスに向ける。
――もう過ぎているかもしれないのに?
――ひょっとしたら今日かもしれないし、これからかもしれないよ?
エルヴィは、変なところで前向きだ。彼女だって、自分の誕生日を忘れてしまっているのに、悩む様子もない。
もっと別のことで悩んでいるから、そんな程度のことで悩む暇はないとばかりに。
――わかったよ。頑張る。大したものは渡せないけど。
――やった。
エルヴィが、クラウスと繋いだ手を振り上げる。
自分の手をぶんぶん振らされて、乱暴だとクラウスは思う。でも、あえてエルヴィにされるままにしていた。
森の小道を歩いているうちに、二人が帰り着く場所が見えてきた。『白い家』だ。赤の他人がいれば、黒髪の少年と銀髪の少女という、まったく似ていない兄妹か姉弟がお腹を空かせて、親の待つ家に帰っているように見えるだろう。
二人がお腹を空かせていたのは事実。だが待っているのは、親などではない。
エルヴィが、クラウスの手を振るのをやめた。代わりにさらに強く握る。
――……不安なのか?
この先に待っているのは、夕食と、大量の薬。
『白い家』は、実験施設だ。クラウスたちはそこで、 何かの実験の被験者として扱われていた。飲まされる薬も、その実験に関するものだ。何のために飲まされるのかはわからない。
勉学や運動の時間を除くと比較的自由はあって、こうしてエルヴィと二人きりで出かけることもできるけれど。
――変だよね。毎日のことなのに。
――俺だって同じだよ。パーヴェルにあんなことされて、嬉しくなんてない。
――それに、私の姉さんも気になって。
――アリスとは、やっぱりあまり話していないのか?
エルヴィはうなずいた。
エルヴィの姉、アリスは、パーヴェルにここで行われている実験の協力をしていた。だが、飲まされる薬と同様に、二人が一緒に何をしているのかはわからない。妹を放っておいて、アリスが何をしているのかも。
――ここに来る前のこと、ずっと引きずっているの。姉さん、ここに来て笑ったこと、あまりない。髪だって、あんな風に灰色にくすんじゃった。昔は私よりもきれいな髪だったのに。
エルヴィとアリスは、とある村でパーヴェルに拾われたらしい。隣国の軍隊が押し寄せてきて、村を焼いて、村人たちは皆殺しにされた。生き残っていたのは、エルヴィとアリスの姉妹だけだったという。
そのときの詳しいことは、エルヴィも話そうとしない。
――一緒にいるのに、私、姉さんのこと全然わかってないみたい。姉さん、ここで何をするつもりなんだろ。
エルヴィは、下を向いてしまう。
――寂しいし、不安なんだね。
クラウスは、さらに強くエルヴィの手を握る。
――ごめんね、暗い話をして。
――でも、話してくれてよかった。
――え?
エルヴィが青い瞳をクラウスに向ける。
――エルヴィのおかげで、俺、家族のこととか、忘れないでいられたんだ。
エルヴィは、少し顔を赤らめた。
――クラウス、最初の頃はよく泣いてたけど。
――お互い似たようなものだろ。
家族を失ったのだ。クラウスは『白い家』に入った当初、瓦礫に阻まれて両親とはぐれた瞬間を思い出しては、よく泣いた。他の子供たちと同じように。
――だけどエルヴィのおかげで、笑ってもいいんだって思えたんだ。父さんと母さんのこと、笑ってたり、優しくしてくれたりしたこととか、ちゃんと思い出してさ。
クラウスの言葉に、エルヴィは頬を染めたまま微笑む。
――だって、どうせ思い出すなら笑った顔のほうがいいでしょ。
――ああ、今日の話だって懐かしかったし、本当に楽しかった。
エルヴィはいつも、クラウスに優しい記憶を思い出させてくれる。もしエルヴィがいなければ、両親のことも、誕生日を祝ってもらっていたことも、忘れていただろう。
――だから、何かあったら俺が聞くよ。エルヴィに恩返し。
――ありがと。
――それに、エルヴィのこと、守るから。
クラウスの言葉に、エルヴィの微笑みは満面の笑みへと変わった。
――うん。
当時はただの子供だった。だからあんな大胆なことを言えたのだろうと、クラウスは思う。そしてエルヴィも子供だったから、素直に信じてくれた。
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