第22話

 ――何?

 ――俺が、この女と一緒だった?

 敵国カルガトの特殊部隊に所属していて、ウルムの街に獣を放ち、子供を含めた多くの人を殺めたこの女と?

「クラウス」

 心配そうな呼び声で、クラウスは後ろを振り返った。

 そこにいたのは、エルヴィ。

「エルヴィ! どうしてここにいる? ついてくるなと」

「だって、心配で……あっ」

 エルヴィは、声を失った。

 アリスとエルヴィ、姿が似ている者同士が、目を合わせた。

「エルヴィ、お前も生きていたか。よかった。お前がいなくなって、どれほど心配したかと」

 アリスが、再び笑みを浮かべる。

「私、あなたのこと知らない。何なの?」

「お前を迎えに来たんだ。もちろんクラウスも一緒だ。二人で一緒に、祖国に戻ろう」

「祖国、だと」

 ユージンが女の言葉に食らいつく。

 つまりアリスは、クラウスとエルヴィはカルガトの人間であると言っている。

 アリスは、さらに続ける。

「敵に囲まれて、大変だったな。決して、安らぐ場所ではなかったと思う。特にクラウス。四年も敵国の地で過ごした。つらかったな。もうそんな日々は終わりだ。一緒に、故郷に帰れる」

 アリスが、意味不明な言葉を続ける。

 クラウスにとって、ここは敵国などではない。仮のものであっても、この国こそが祖国であり、この街は故郷となっている。

「どこに帰るつもりだ? 俺の故郷を勝手に決めるな。ここは俺にとっての敵国なんかじゃない」

 クラウスは言い返す。


「その言葉、自分のことをすべて知った上で話しているのか?」


 アリスが的確に、クラウスの言葉の矛盾を突く。

 アスランの一家に引き取られて、この街で暮らし始めたのは四年前のこと。

 だがそれまではどうだったのか。クラウスはずっと、この街にいたわけではない。

 ユージンに言われるまでもなく、懸念としてこっそりと思っていたことだ。

 ひょっとしたら自分は、本当にカルガトから流れ着いたのではないかと。

 アリスという女は、何を知っている?

「エルヴィもだ。敵に囲まれて、乱暴を受けたと思う。姉である私がきちんと落とし前をつけさせてやるから、叱ったりするのは後だ」

「姉?」

 エルヴィは、優しい目つきのアリスをきょとんと見つめていた。だが慌てて、ユージンやローゼマリーに目を向けた。

「違う。私はこんな人、知らない」

 エルヴィの言葉が虚しく響く。

「二人とも、記憶が失われていて、混乱しているのだな。すぐに私が何とかしてやる。その上で、ヴィランを滅ぼそう。この国の者たちを、殺せ」

 クラウスとエルヴィに、戦いを唆した。

 アスランという父や、ユーリスという母、レーアという妹に、兵術学校やウルムの街に数多くいる友人や知り合いたちを、敵として滅ぼせ。そう彼女は言っている。

「ふざけるな。陽動して、仲間割れでも狙っているのか。ローゼマリー先輩、敵の言葉です。ユージンも惑わされるなよ」

 敵の思惑に乗るまいと、クラウスはアリスの言葉を否定する。

「私もこの街の人たちに助けられた。それなのに殺せだなんて、ひどすぎる」

 エルヴィも反論に加わった。

「ならすべて、思い出してもらおうか」

 アリスは、右手を前に掲げた。クラウスがとっさに剣を抜くと同時に、彼女は指を鳴らす。

 乾いた音に続いて、地上に続く階段から気配が近づいてきた。灰色の毛皮をまとった、異常に発達した牙と爪を持つ、一瞬で移動しては足元に迫り、人々の喉元を食いちぎる狼。

 クラウスは、とっさにあの力を使った。世界を停滞させる。アリスも、機関銃を構えようとしているユージンやローゼマリーも、エルヴィも、跳躍する狼も、動きを止める。

 クラウスは、狼に近づいた。動きを止めたままの狼の真横に来る。

剣を掲げたところで、世界を再び動かした。

クラウスの剣が、狼の首を飛ばす。狼の胴が倒れ、首が転がり壁に跳ねる。

直後、クラウスの剣を持つ手が掴まれていた。女の白い手。力強くて、振り切れない。横を見ると、アリスの青い瞳が、クラウスのすぐ目の前にあった。

しまった。狼はただの陽動。

「ポトリアの、解毒剤だ」

 再び知らない言葉を聞いた直後、クラウスは首筋に痛みを感じた。何かを注射されている。

「これですべてを思い出せる」

 アリスは、空になった注射器を捨てた。

「クラウス君!」

「クラウス!」

 ローゼマリーとユージンが、その名を叫ぶ。だがクラウスには、二人の声が遠くに聞こえた。意識が暗くなり、床に膝をつく。手から剣が離れ、床の上に転がった。

 見ると、アリスはエルヴィの目の前にいた。逃げようとするエルヴィの手首を掴んでいる。もう片方の手には、一本の注射器。

 離れていたのに、一瞬で距離を詰めた。アリスも、狼と同じ力を使えるのか……

 クラウスの思考は、頭の痛みに遮られた。

 鼻の中に、煙のにおいがする。鉄や木材、レンガ、何かの燃料、そして人……その他もろもろが焼けるにおいがごちゃ混ぜになっていて、吐き気を催すほどの悪臭がする。クラウスがいるこの部屋には火の手などないのに。

 そして、脳裏にとある街の様子がよぎる。

 ウルムの街とは違う。炎に包まれている街。目の前の建物に砲弾が着弾して、轟音が響き、勢いよく崩落していくところも。行く手が瓦礫で塞がれていて、煤まみれの小さな手でかき分けたことも。

 クラウスは、脳裏に浮かぶこの街を知っている。

 四年前にクラウスから失われた――厳密には封じられていた――記憶にある、生まれ育った街。思い出した。ずっと昔の幼い頃、煤まみれになりながら、こうして一人で燃え盛る街を逃げまわった。

 その末に、一人の男と出会った。さまよっていたクラウスの手を引き、車に乗せて、とある場所へと連れていった。

「お前たちはすべてを思い出す」

 アリスがエルヴィにも注射を終えて、冷たく言い放つ。

 その間にも、クラウスは次々と、四年前よりさらに昔の記憶の渦にさらされる。白い建物に入れられたこと。薄暗い照明の下で、緑色の液体を注射されたこと。そして、牢獄のような部屋に入れられたこと。

 記憶が、一気にあふれてくる。

 アリスの言ったことは、正しかった。クラウスはアリスもエルヴィも知っていた。四年前まで一緒に暮らしていた。

 そして脳裏に、長い黒髪で顔を半分隠した、長身の男がよぎる。

 ……ああ、思い出したくない。

 忘却の淵の底に沈んでいたのは、封じられた四年前までの記憶という名の、バッドエンドの物語である。

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