第21話

 市役所地下の避難施設にて。

 平時は大雨が降ったときの貯水施設も兼ねている、堅牢なコンクリート柱が並ぶ広大な空間には、逃げ込んだ市民たちが集まっていた。みんな、静まり返っていた。たまに子供の泣き声が響くが、すぐに泣き止む。パニックすら、起きていない。

 ここにいる者たちはみんな、わかっていた。騒げば、あの獣が侵入してくるかもしれない。逃げ場が限られている中で、食い殺されるかもしれない。

 そんな市民たちを見てまわりながら、クラウスは異変に気づいていた。

「ローゼマリー先輩を見なかったか?」

 クラウスは、合流したエルヴィに尋ねる。

「ううん、知らない」

 エルヴィは首を横に振る。

「こんなときにどこに行ったんだ?」

 クラウスとエルヴィは、地下避難施設に逃げ込んだ人たちの世話に忙殺されていた。軽傷の人に傷の処置をしたり、親とはぐれたという子供を慰めたり、逆に子供とはぐれたという親から、その子供の特徴を聞き取ったり……

 レーアが重傷を負って、彼女の安否は気になる。でも、ぼんやりと落ち込んでいるには、今回の襲撃で傷ついた人たちは多すぎた。アスランは市長として、状況の確認と避難指示を出さないといけないし、ユーリスも他の重傷者の手当てに奔走しているのだ。自分たちだけ、のんびりしているわけにはいかない。

 そうしてあくせくしているから、ローゼマリーの姿が見当たらなくなっているのに気づくのが遅くなった。

「そういえば、レオンだっけ、ローゼマリーの弟も見当たらないよ」

 ローゼマリーと同じ赤毛に赤い瞳の少年も、確かにこの地下避難施設に逃げ込んだのに。

「無線で呼びかけるか」

 クラウスは、無線端末を取り出した。周波数をローゼマリーの端末のそれに合わせて、通話スイッチを押す。

「ローゼマリー先輩、聞こえますか? 今どちらに」

 クラウスが声を吹き込む。

 だが、返事がなかった。おかしい。ここに逃げ込んだとき、確かにローゼマリーが無線機を携帯しているのを見たのに。

「聞こえますか? 応答してください」

 クラウスがさらに声を吹き込む。これにも、返事がない。

「クラウス」

「先輩に何か起きたのかもしれない」

 クラウスが焦りをあらわにしたとき、手元の無線機が声を発した。

『その声、クラウスか?』

 聞いて、クラウスは驚いた。女の声だがローゼマリーではない。若いがやけに老成したようにすら聞こえる声。活発なローゼマリーは、こんな声でしゃべらない。

 しかもこの女、クラウスの名前を知っている。クラウスはこんな声で話す女を知らないのに。

「誰だ?」

 クラウスは、不審な声の主に向かって問う。

『久しぶりだな。やはり生きていたとは。声も、すっかりと男のものになった。誰なのか最初はわからなかったくらいだ』

 知らぬ者が、クラウスを知っていて、その成長を一方的に喜んでいる。気味悪さは募った。

「あんたは誰かと聞いているんだ。名前を名乗れ」

『アリス、という名を知らないのは仕方がないか。四年前までのすべてを忘れているのだから』

 この女、こちらが四年前までの記憶がないことまで知っている?

「ローゼマリー先輩はどうした。その端末は、先輩が持っているはずだ」

『この女、ローゼマリーというのか』

 声の主は、ローゼマリーの近くにいる?

『彼女の身は私が預かっている。弟もだ。素直に私の指示に従ってくれているから、危害は加えていない』

 この言い方が、クラウスに声の主は敵だと認識させた。二人は声の主に人質に取られている。

「どこにいるんだ? 先輩に何をするつもりだ」

『ただ、道案内をしてもらっているだけだ。一緒にそちらへ向かっている。エルヴィも、そこにいるのか?』

 唐突にその名前も出された。クラウスはとっさに、口許に指を当てて、エルヴィに黙っているよう伝える。

「あんたの目的は何だ? 俺と会って何をするつもりだ?」

『再会を、楽しみにしている。できれば妹とも』

 妹?

「質問に答えろ。妹とは誰のことだ」

 クラウスは声を無線機に吹き込むが、応答はなかった。

「ローゼマリー先輩とも話をさせろ」

無線機は沈黙を続けたままだ。

「クラウス、さっきの声は」

クラウスは、無線機をしまった。

 そしてクラウスは、エルヴィの耳元に顔を寄せた。これから話すことを、周囲の市民たちに聞かれてしまわないように。

「さっきの声の主は、あんたを狙っている。戦いになるかもしれない」

「クラウスは、どうするの?」

「ローゼマリー先輩が、危ない。エルヴィはここにいろ。絶対についてくるな」

 クラウスは、エルヴィのそばから駆け出した。呼び止めるような声を聞いた気がするが、立ち止まりもしない。

 クラウスは市民たちが逃げ込んだ避難区画を抜け、階段を上がっていった。レーアを始めとする重傷者たちが集められた区画の前も通りすぎていく。

「クラウス」

 呼び止める者がいた。医術室から出てきたユージンだ。重傷者の治療のための器具を運んでいたのだろう。

「ユージン、ローゼマリー先輩に何かがあった」

 クラウスは、端的に伝える。

「何?」

「敵の人質にされているかもしれない。急いで入り口に向かう」

 さっきまでユージンに、敵意と疑惑を向けられていたというのに。

 クラウスはそのまま、駆けていった。



 地下避難施設の入り口は、頑丈な金属製の扉となっている。しかも二重だ。空襲の際に、爆風が入ってこない設計になっていた。

 クラウスは慎重に金属扉を開ける。ユージンが、金属扉の向こうに機関銃を向けた。

 だが、ユージンは、

「ローゼマリー先輩」

 つぶやいて、銃口を下に向けた。現れたのは、赤毛の、クラウスやユージンよりも一つ年上の少女。外から戻って、階段を下りてくる彼女は、怯えた視線をこちらに向けていた。赤い瞳が揺れている。

「ごめんなさい、クラウス君。私、クラウス君のこと、売ってしまった」

 ローゼマリーが、震えた声を出した。

 彼女が外に出た理由は、クラウスが殺めた狼だろう。死体に興味を示していたが、レオンやエルヴィ、レーアを安全な場所に連れていくのを優先して放置した。

 だが、もう一つ疑問は残る。

「どうして、先輩だけで外に?」

クラウスがいれば、街を襲う狼たちに食い殺される危険が大きく減るのに。

「……」

 ローゼマリーは、クラウスの問いに答えない。

「クラウスか、懐かしいな」

 声が、響いた。無線で聞いた、あの女の声だ。

 ローゼマリーの後に続いて、もう二人が、階段を下りてくる。クラウスは、腰の剣に手を添えた。

 一人は、レオンだ。そしてもう一人は、レオンの手を後ろで掴み、その喉元に剣を突きつけている、女。しかもその姿は、最近知り合った子にそっくりだった。青い瞳も、灰色がかっているが銀色の髪も。

「エル、ヴィ?」

 彼女にあまりに似ていて、クラウスはついその名を口にする。

「いや違う、あんたがアリスか?」

「いかにも」

 女は答える。

危険地帯をさまよっていたレオンを、安全な場所に連れ戻した、などとはとても思えない。

「あんた、何のつもりだ。その子を放せ」

 クラウスは、灰色の髪の女に向けて言い放つ。

 だが灰色の髪の女は、意外にもあっさりとレオンの手を放した。レオンは急いで灰色の髪の女から離れ、ローゼマリーに飛びつく。

「クラウス、やはり生きていたとは」

 うっとりと、灰色の髪の女はつぶやく。レオンのことなどどうでもよくなったみたいだ。

「レオン、今すぐ奥に逃げて」

 ローゼマリーが、解放されたレオンに言って聞かせる。

「でも」

「この場で先に殺されるのはあなたよ。ここにいるだけでも邪魔」

 ローゼマリーは、弟の体を押しのける。レオンは戸惑ったが、灰色の髪の女から無機質な視線を向けられると、急いで、通路の奥へと走り去っていった。

「ごめんなさい、クラウス君。化け物を連れ込んでしまった。クラウス君を、売っちゃった。でもこうしないと、レオンが殺されてた」

 弟がいなくなったところで、ローゼマリーが虚しい弁明を続ける。市民が逃げ込んだ場所に敵を連れ込んだ責任は自分にあると、訴えていた。

「案内、ご苦労だった」

 そんなローゼマリーに、灰色の髪の女は声をかけた。

「お前は、何者だ?」

 ユージンが、声をかける。

「私の名は、アリス・アズレート。カルガトの、特殊生物兵器班の実行部隊だ。地上で狼たちを殺めたのは、クラウス、お前だな」

 これではっきりとした。この女は敵で、街に放たれた狼たちは、カルガトの手の者によって放たれた。

「ああ、俺が殺した」

 クラウスは、剣に手をかける。だがアリスは冷静だ。

「霞化を使ったか。記憶は封じられたままのようなのに」

 アリスが、謎めいた言葉を発した。

 霞化?

「どういうことだ? さっきからどうして俺のことを知っているように話す?」

「当然だ。お前と私は、四年前までずっと一緒だったから」

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