第20話 灰色の魔女
女は灰色に近い銀色の髪をたなびかせて、ウルムの市街地を歩いていた。
「ここに、妹はいるのか?」
普通の街だ。レンガ造りで高すぎず、こじんまりともしていない建物や、同じくレンガで舗装された道はほどよい暖色で、見ていると落ち着く。しかも街は雪をまとっていて、その眺めは清々しさを増していた。普段ならばさぞ、暮らしやすい街なのだろう。
だが、街は変わり果てていた。
通りには食い散らかされた人々の遺体がそのまま放置されていて、積もっている雪は踏み荒らされ、血に染まっている。建物の壁には、狼の爪によって残された傷跡。多くの人が逃げ惑い、何かに襲われた後の悲劇の名残が、そのまま放置されていた。
――早く、見つけてしまわなければ。
――妹が、狼どもに食い殺される前に。
焦燥を押さえながら、女は、そのまま街の中に足を踏み入れていく。助けを求めるように手を伸ばし、力尽きた背中に大きな傷のある遺体をまたぎ、黒く固まり始めた血だまりをよけて、街の奥へ奥へと足を進めていく。
通りを歩く者はいない。この街の者たちは、女の放った獣に殺されるか、建物の奥か地下の避難施設に逃げ込んだ。今頃は得体の知れない脅威に怯えている。
通りの向こうから、狼が一頭、こちらに向かってきた。牙を血で赤くし、全身の毛皮すらも血で赤く汚した狼は、女の横で腰を降ろす。女は足を止めて、その狼の頭を撫でた。
この街に放たれた狼は、死なないはずだった。
この街には兵術学校があって、有事の際には戦闘に対応できるようになっている。この狼が街に現れたとき、兵術学校の者たちは銃を取って、街の人たちを守ろうとした。
だが狼たちには銃弾が効かない。秒速三百メートルの弾の射線を見抜き、簡単にかわしてしまう。そして敵に切迫し、長く発達した爪で裂くか、牙で肉を食い千切る。現に今、足元には大勢の街の人の屍が転がっている。ウルム兵術学校の軍服をまとった者の、機関銃を持ったまま事切れている者まで多く含まれていた。
だが、殺されることはないはずの狼に、犠牲が出た。女が持つ、狼たちを管理しているデバイスには、赤字ではっきりとKILLEDと表示されている。しかも四頭だ。
こちらの生物兵器に、ヴィランが即座に対応できるはずがない。現にこちらの放った狼たちによって、この国の国境沿いの前衛基地や、ウルム近郊の通信基地はあっけなく陥落した。一頭たりとて欠けることもなく。
四頭もやられてしまうなど、ありえない。
ありえる理由とすれば、ただ一つ。
女は、目的の場所に着いた。街の中心部だ。
そこには、一頭の狼が倒れている。喉を刃物で貫かれて、血だまりの中で息絶えていた。頭と胴体が皮一枚でかろうじてつながっている状態だ。
女は、通りの向こうに人の気配を感じた。
路地から出てきたのは、赤毛の少女だ。この街にある兵術学校の軍服をまとっている。女は、狼もろとも近くの建物の柱の裏に隠れた。赤毛の少女の動向をうかがう。
だがもう一人、路地から飛び出してきた。少女の頭一つ分背が低い、やはり赤毛の少年。
「姉ちゃん」
少年は呼んだ。少女は振り返る。
「レオン、どうして出てきたの? 地上は危ないと言ったでしょう」
姉ちゃん、と呼ばれた少女が、レオンという少年を𠮟りつける。
「姉ちゃんこそ、どうして出ていくんだよ」
「狼の死体を回収するためよ。どこから来たのか知る手がかりになるから。さっきはクラウスの言うとおり回収なんてしている暇がなかったし。まさかレオンも出てくるなんて」
「だからって、どうして一人なんだよ。クラウスがいれば何とかなるだろ」
クラウス、という名前に、女は反応した。
――クラウスとは、四年前に消えたあのクラウスか?
あの少女、何か手がかりを握っている。
「クラウス君に頼りすぎたくない」
「あの化け物を倒したじゃないか」
「クラウス君も狼たちと同じ力を使っていたけど、いつまで使えるかわからないでしょう。体にどんな負荷がかかるか」
「また襲われないのか?」
「襲撃は落ち着いているわ。回収するには、今がいい。で、レオン、どうして出てきたの?」
「だって、母さんが殺されたばかりなんだよ。僕をかばって、あの狼から」
レオンが、目に涙を浮かべた。
「それで姉ちゃんまで殺されたら、僕、どうしたら……」
嗚咽し、泣き出したレオンを、姉は抱き寄せる。
「ごめんね。こんなつらいときに、勝手だった。来てしまったからには仕方がないわ。私から絶対に離れないで」
「うん」
灰色の髪の女は、柱の陰から出た。姉弟のほうへと向かう。
連れている狼が、すぐ横を歩きながらうなっている。すぐにでも飛びついて、その肉を食らいたい、という様子だ。女は、殺してはならないとその狼を手で制した。
姉弟、近づいてくる女の存在に気づいた。
「あ、あなた、こんなところで何を……」
少女が女に向かって話しかけ、そして言葉を途切れさせた。
女の横には、大きな血の色の牙をさらした、街を襲ったのと同じ狼がいる。
「こいつ……!」
灰色の髪の女を敵だと判断した少女は、背後にレオンをかばった。腰の小銃を抜いて、女に向ける。
「私は殺しを考えていない」
女は狼の頭を撫でながら、少女に向かって言う。
「私がここに来たのは、ある人物を探しているからだ」
「その化け物とどういう関係があるの?」
少女が語気鋭く、しかし声を震わせて問いかけてくる。
「いかにも、私が命じれば、これはすぐさまお前たちに飛びつく」
「化け物を街に放ったのはあなたたち? まさかカルガトの関係者?」
「そんなことはどうでもいい」
無駄な会話だ。呆れながら女は応じる。できれば早く、彼と妹を見つけてしまいたいものなのに。
「姉ちゃん、早く逃げるんだよ」
レオンが姉を急かす。自分の命すらも危うい状況だというのに、姉の生を優先していた。失いたくないと声で聞こえてくるような、普通の子供とは思えない切実さだった。母親を殺されたばかりだからか。
だからこそ女の目には、そんな足掻く様が滑稽に映る。
十メートルの距離に近づいた時点で、この姉弟の命は女によって握られているのに。
「お前たちは私の問いかけに答えるだけでいい」
「この魔女が!」
完全に女を敵と認識した姉が罵る。
「クラウスに加えて、エルヴィとイリヤ、この二人の名前を知っているか?」
突如、姉の態度が変わった。
「クラウス……? エルヴィ……?」
何かを知っているようだ。
「だから何よ? 攪乱するつもり?」
姉が瞳にちらつく動揺はそのままに、再び怒鳴りつけてくる。
「レオン、とにかく逃げて。私が引きつける」
「だめだよ、姉ちゃんも逃げるんだ!」
「後で追いつくから、ね」
姉は空いた手で、レオンの体を押す。だがレオンはその場に踏みとどまって、なかなか姉の言うとおりにしない。
「今の状況で、お前の結末は二つだけだ」
灰色の髪の女は続ける。もちろん言葉をかけた相手である姉は、弟を逃そうと必死だ。
「いつまで突っ立っているの。早く逃げて!」
相変わらず女のほうに意識を向けていない。無視されていることに女はわずかばかりの苛立ちを抱くが、それでも続けた。
「一つの結末は、先ほどの三人の居所を教えて生き延びること……」
「こんなところで死なないで!」
灰色の髪の女に目を向けたまま、姉は叫ぶ。
女は青い瞳を姉から、背後のレオンのほうへと向けた。視線が合って、幼い男の子の姉に似た赤い瞳に、怯えがよぎる。
女は世界を停滞させた。
刹那の間を引き延ばしている間に、女は十メートルの距離を詰める。そのまま、レオンのすぐ隣まで来たところで、世界を再び動かした。
レオンの細い手首を掴み、姉から引き離す。
唐突に体の自由が奪われて、レオンが短い悲鳴を上げた。
「レオン!」
姉が小銃を向けようとする。
だが灰色の髪の女が剣を抜き、レオンの喉元に突きつけるほうが先だった。
「もう一つの結末は、この子が殺されることだ」
選択肢を、姉に突きつける。
弟を人質にとられ、姉は指一本動かせなくなっていた。引き金を引くことも。
「その場合、後で姉のお前も殺す。弟を死なせておいて、自分だけのうのうと生き延びるのは、さすがに無様が過ぎるだろう」
女は、レオンの手首を掴んでいる手に力を込める。
「姉ちゃん助けて!」
レオンが、どうしようもない状況にとうとう、姉に救いを求める。
「私が求めるのは簡単なことだ。エルヴィとクラウス、イリヤの三人の居所を教えろ。最悪、この街にいるかどうかだけでいい」
「イリヤという人は知らないけど、あとの二人ならば知っているわ」
姉は、やっと女の問いに答えた。
「クラウス君はこの街の市長の養子よ。エルヴィちゃんも去年の年末に街に現れて、市長に匿われているわ」
「では、エルヴィとクラウスはどこにいる?」
「さっきまで、一緒だった。市役所の地下に避難施設があって、そこに逃げ込んでいる」
「では、連れていけ」
女はレオンの手首を握り、喉元に剣の刃を突きつけたまま、言う。
「もちろん、銃の類は捨ててもらおうか」
姉は顔を歪めたが、言われたとおり小銃を足元に捨てた。
「私の前を歩け。下手に抵抗しようとすれば、この少年は殺す」
姉は言われたとおり、背をこちらに向けた。
「……ごめんなさい。クラウス君」
詫びの言葉をつぶやき、姉は歩き出した。
その背後を、女は歩いていた。
さらに後ろには、時々血に飢えながらも女の命令を忠実に守っておとなしくし、ただ不満だけはあらわにうなる、狼を従えながら。
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