第17話

倒れていく妹の姿を、クラウスは見るしかなかった。

 レーアの茶色い髪が、彼女自身の血で汚れていく。

 クラウスの忘却の淵に沈められていた記憶が、ひとつ、泡となって浮き上がる。

 四年前を、思い出した。厳密には、クラウスが目覚めるよりも前のことだ。

 そうだ。こんなふうに、女の子を守れなかったことがあった。クラウスの目の前で、腹を狼に咬みつかれ、血を流して息絶えた女の子がいた。

 その女の子の名前は、まだ思い出せないけれど。

 悔やんだ。意識が途切れるまで、自分を責めた。

 守れたはずだったから。自分にそれだけの力があったから。

 そう、その力とは、このおぞましい獣どもが持つのと同じ力。

 力ならば、クラウス自身にもあった。ただ、四年前に忘却の淵の底に沈めていただけだ。

 クラウスは世界を止めた。

 すべてが、停滞している。立ち尽くしたままのエルヴィやユージンも、凶悪な牙に倒れ、大量の血を流していたアレンや、レーアも、止まっている。街に降り続く雪の粒も、すべて空中にとどまっていた。

 それは、クラウスたちを襲う三頭の狼たちとて例外ではなかった。

 レーアの肩に食らいついていた狼は、いったん彼女を放し、とどめを刺そうと口を開けたところで止まっている。動こうとせず、無防備にその首をさらしていた。

 停滞した世界の中で、クラウスはその狼のところへと向かう。

 まずは、妹を傷つけ、殺めようとするあの獣の排除を。

 クラウスはレーアに覆い被さっている狼の横に立った。剣の切っ先をその首に突きつけ、そして再び世界を動かす。

 狼がレーアの喉元に食らいつこうと、荒い息を吐いた。口をさらに大きく開け、血に染まった牙が鈍く輝く。

 クラウスが、喉元に剣を突き立てていた。切っ先が、毛皮の下の肉に食い込み、狼の体が硬直する。気管を潰したからか、狼は吐息ひとつない。

 クラウスは、その狼の体を蹴って剣を引き抜いた。狼の体は血の筋を雪の上に残しながら、あっけなく転がっていく。

 クラウスはもう二頭に目を向けた。二頭は動揺したように、横たわって動かない狼に目を向けている。その場に立ったまま動こうとしない。どうするか、決めあぐねていた。

 そのまま、三秒がたつ。

 クラウスは再び世界を停滞させた。一点を見つめたまま動かぬ標的となった狼に向けて歩いていく。

 次は、もう二頭の排除だ。

 クラウスは目標にした一頭の隣にきたところで、再び世界を動かした。

 狼と目が合った直後、クラウスの剣が振り下ろされ、狼の首を切り落としていた。続いてもう一頭に向けて剣を振り上げる。その狼も、跳ねるのが遅れ、首にクラウスの剣の刃を受ける。

 首を失った狼二頭の胴体は、その場に倒れた。遅れて二つの狼の頭部が、雪の上に転がる。

 クラウスは剣をしまった。

「レーア」

 踵を返し、仮の妹のところへと向かう。レーアは、エルヴィに抱えられ、咬まれた肩の傷にハンカチが当てられていた。

そして、意識がない。

「おい、しっかりしろ」

 守れなかった。その事実に、クラウスは足が震えそうになる。そばにいたのに。

 アスランに、ユーリスに、何と言って詫びたらいい?

「大丈夫。生きているから」

 エルヴィは告げる。

 そうだ。今は取り乱している場合ではない。

「急いで安全な場所に連れていく。市役所の地下にユーリスさんもいるはずだ」

 家から市役所までは近い。無事ならば、そこに逃げ込んでいるはず。女医だから、レーアの傷の処置もしてくれる。

 四年前のクラウスも、あの人に折れた右腕の処置をしてもらった。

「わかった。私が抱えていくから」

 エルヴィが、ぐったりとしているレーアの体を持ち上げる。

「レーア、ちょっとの辛抱だからな。死ぬなよ」

「おい、クラウス」

 呼び止める者がいる。ユージンだった。

「お前、何者だ?」

 クラウスの前に立ち塞がり、問い詰める。

「あの狼のように、一瞬で移動していた。こいつらとどういう関係だ? お前も、化け物なのか?」

 余計な詮索だ。クラウスはユージンの黒い瞳を睨みつける。

「このまま行かせるわけにはいかない。お前がどういうつもりなのか明らかにしないと」

 ――また、こいつは。

 エルヴィのときのみならず、二度も。

「ユージン、状況がわかってるのか。子供の負傷者がいるんだぞ」

 ずっと、ユージンには疑われてきた。クラウスは記憶を失ったふりをしている。カルガトのスパイかもしれない。薄気味悪い、出自の不明な、無国籍者ステートレス。関わるな……。

 クラウスにとっては、どうでもよかった。自分だけが疑われるだけならば、他の誰かが傷つくことはないから。アスランやユーリス、レーアのような、かばってくれる人がいるだけでも、すごい。

 だが、今のユージンは許せない。

「お前を好き勝手させられるか」

 ユージンは頑固に立ち塞がったままだ。それが無駄な時間だと、レーアをいたずらに弱らせてしまうだけだと、ユージン自身もわかっているはずなのに。

「行かせろ」

「だが」

「ふざけるな!」

 クラウスは、ユージンの胸倉を掴んだ。そのまま横に投げ飛ばす。ユージンの大柄な体は、あっけなく雪の上に転がった。

「俺を疑うだけならいい。敵とみなすのも。でもレーアは、今にも死ぬかもしれないんだ。ついさっきまで友達と学校に通っていただけの、よく笑う普通の子が! 殺される理由もないのに!」

 機関銃で脅してくるのならば、戦うつもりでいた。銃など、怖くない。本気で撃ってきたとしても、たやすくあしらえる。

 だがユージンは、地面に後ろ手をついたままだ。

「あんたの身勝手な疑念で、妹を殺すな」

 おとなしくしているならば、どうでもいい。クラウスはエルヴィのほうに目を向けた。

「ごめん。行く」

 彼女に声をかける。エルヴィはユージンを見下ろしたが、そのまま前に歩き出した。

 クラウスはもう一度、さっきまで行動をともにしていた仲間たちを見やる。最初にやられた三人も、マクガリフも、アレンも、だめだった。もう、手足の痙攣も止まっている。生死の確認をするだけでも時間の無駄だろう。

 レーアが助かって、事態が落ち着いたら、必ず迎えに戻る。もちろん、この学校の犠牲者たちも。

 クラウスは校庭を後にした。

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