第9話

 帰宅したアスランは、さっそくキッチンに入った。

「よし、ささっと作るぞ。クラウス、サラダを作ってくれ。レーアはパンの準備を頼む」

 エプロンを着こなしたアスランが、ささっと指示を飛ばす。

「ああ」

「はーい」

 クラウスも対面式キッチンに入り、野菜を切り始めた。隣のアスランも、ハンバーグに入れるたまねぎを刻みにかかっている。

 一方で、簡単な仕事を割り振られたレーアは、そそくさと棚から人数分のパンを出して、テーブルの上に並べた。

「お腹空いてたら先に食べてもいいけど、どうする?」

 レーアは、エルヴィに尋ねる。

「せっかくだし、料理が全部そろったら。でも本当にいいのかな。こんな風に食事も振舞ってもらえて」

「ひょっとして、遠慮しているの?」

 レーアは、自分の椅子に腰かけながら言う。

「お返しできるものは持ってないから」

「私の話し相手になってくれたら、それで十分だよ? クラウス本当にあまり帰ってきてくれないから。帰ってもすぐ兵術学校に戻るし、つまんないの」

 レーアがさらっと言ってのける。

「この休暇中は一緒に遊びに行ったりするから」

 切った野菜を皿に盛りつけながら、クラウスは言う。さっきは帰宅を喜んでくれたけれど、これでは嫌われているみたいだ。

「レーア、クラウスも本当はあなたと一緒にいたいの。わかってあげて」

 ユーリスも擁護してくれる。だがレーアは、「ふーん」と冷めた様子だ。

「この前、一緒にお買い物行くって約束破ったよね」

「いきなり兵術学校から招集がかかったんだ」

 レーアの冷たい視線が、クラウスに向けられる。

「私、毎日カレンダー見ながら楽しみにしてたのに」

「すまなかった。悪かったよ」

 クラウスが必死に謝る。

 するとレーアが、いきなりポケットからスマホを取り出した。クラウスに向けて、カシャ、と撮影する。

「一枚、いただき。へへへ、エルヴィ、今の兄さん見た? 困った顔、あー面白かったー。もうたまらないよねー」

「えっ? あっ? うん?」

 話を振られて、エルヴィは困惑している。

 アスランもユーリスもくすくす笑うばかりで、娘をとがめようとしない。

きっとレーアなりに、エルヴィを歓迎しているのだろう。でも、された側のクラウスはたまったものではない。

「レーア、いたずらはやめてくれ。撮るなら言うんだ」

「いいでしょ。せっかく帰ってきたんだし、一枚だけだから」

「この一年で百何回目の一枚だけだ?」

「九十三回目だよ。まだ百回いってない。ってことは許してくれるんだね」

「数えていたのかよ」

 しかもこじつけが強引すぎる。

「ねえ、エルヴィは、兄さんに助けられたんだよね」

 レーアはいたずらっぽい目のままに、エルヴィに尋ねる。

「え? う、うん。森の中で倒れていたのを、背負ってくれたって。覚えてないけど」

「へー。かっこいいと思ったでしょ、兄さんのこと」

 レーアは、わざとキッチンのクラウスの耳にも届くほどの声で話す。

 ――何を始めるつもりだよ?

「……兄さんのこと、もっと知りたくない?」

 レーアは、エルヴィに身を寄せて話した。

「うん。気になる」

 エルヴィも、レーアに身を寄せた。

「あんまり変なこと言うなよ」

 クラウスはサラダをテーブルに運びながら、レーアに言いつける。だがレーアは、聞き入れる様子もなかった。

「私の兄さんはね、ずっと前は泣き虫だったんだよ」

 クラウスは、トレーに載せたサラダを落としそうになった。

「うぅ、いきなりなんてことを」

「泣き虫?」

 エルヴィは、きょとんとしていた。

「そう、泣き虫。夜、よくベッドの中で泣いてたし、お墓参りに行ったら泣く。私、見てられなかった」

「四年前のこと?」

 つまりは、クラウスがこの家で暮らし始めたときのこと。

 レーアはうなずいた。

「やっぱり、エルヴィも聞いているんだね。それに兄さん、嬉しいときも泣くんだ。外から帰ってきて、私がおかえりって言っただけで泣くし、探し物を見つけてくれて、ありがとうって言っても泣く」

「露骨だな」

 サラダをテーブルに並べながら、クラウスはため息をつく。だが、レーアを止めようとはしなかった。

 エルヴィが知る、いい機会だ。本当の家族を失い、体を休める家もなく、友達もおらず、駆けまわった故郷もない上に、それらの存在すらも忘却し、すべてを失って、孤独の中で泣くしかなかった。そんなクラウスですら、この家族は受け入れてくれるということを。

 だから、エルヴィも受け入れてくれる。

「クラウスと最初の誕生日を祝ったときなんてすごいよ? わんわん泣いてケーキどころじゃなかった」

「え? 誕生日?」

「私と同じ二月一日」

 レーアは、自慢げに薄い胸を張った。

「そうじゃなくて、どうして祝えているの? クラウス、誕生日は……」

「戸籍上の誕生日っていうやつだ。これもないといろいろ困るから、その日にしている」

 クラウスは教える。クラウスの本当の誕生日は、忘却の淵の底に沈んでしまっているから。

「この子が、私と同じにしようって言い出したけどね」

 ユーリスはそう、レーアの頭をこねくりまわす。

「もう、ばらさないでよ」

 さんざんクラウスの過去をばらしたくせに、レーアは恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「そっか、毎年一緒に祝ってもらうんだ」

 レーアは、にこっと笑った。

「うんっ!」

 仮の家族、仮の誕生日……クラウスの身のまわりにあるものはすべて、仮のもの。それでも、クラウス自身にとって、不満はない。すべてを失っていた四年前を思えば、恵まれすぎているくらいだ。

「エルヴィも誕生日、二月一日にする?」

 レーアが提案する。「こら、勝手に話を進めて」とユーリスは叱るが、レーアはにこにこしていて悪びれない。

「それも、いいかもね」

 エルヴィも笑っていた。クラウスも悪くないと思う。三人が互いに誕生日を祝い、さらに他の人たちにも祝ってもらえるとしたら、とても楽しいだろう。

「ところでレーア、どうしてそんなにクラウスのことを話すの?」

 エルヴィは尋ねる。レーアの様子は、まるで自分はクラウスのことをこれだけ知っているんだぞ、これだけ一緒にいたんだぞ、とでも言い張っているみたいだ。

「ううっ……そ、それは」

 さっきまでよくしゃべっていたのに、急にレーアの態度がたどたどしくなった。

 すかさず、ユーリスも茶々を入れる。

「そういえば、レーアがここまでクラウスのことを話すのは久しぶりね。普段クラウスが兵術兵術学校から帰ったときは、甘えるだけなのに」

「もー、やめてよ母さん!」

「ふふ、素直じゃないのね、レーアは」

 ユーリスはくすくす笑っていた。

「本当は、クラウスがこの子に取られるのが怖いんでしょう。エルヴィ、美人さんだし」

「そ、 そそそそそんな、取られるなんて」

 レーアは、さらに顔を赤くした。今にも湯気が出そうだ。

 ジュー、という音が響いた。

 キッチンで、アスランがフライパンでハンバーグを焼き始めたのだ。肉の焼けるいいにおいが、リビングのテーブルまで漂ってくる。

「あー、私お腹空いた。父さん、あとどれくらい? 早く食べたいなー」

 レーアがはぐらかそうと、大きな声を上げた。

「慌てなくてももうすぐだ」

 仮の家族がもう一人増えた食卓は、間もなく料理がすべてそろおうとしている。

「ちなみにクラウス、さっきエルヴィと手を繋いでいたな。恋人みたいに」

 アスランの暴露に、「「「ぎゃーー! わーー!」」」という少年少女三人の悲鳴が響いた。

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