第7話
初めて足を踏み入れる街に、エルヴィは戸惑っているみたいだった。足を止めて、きょろきょろと周囲を見渡している。彼女の前に広がるのは、暖色のレンガ造りの家々。夕暮れで、ガス灯が灯る中、屋根に雪化粧を施しているのが、なおさら美しさを引き立てている。
「そんなに心配はしなくてもいい。帰るだけだし、うちの家族に悪さする人なんていない」
クラウスは立ち止まって、エルヴィに声をかける。
「そうだよね」
エルヴィは、歩き出した。
「家に帰ったら、私がハンバーグを作ってやる。ちょうど娘もお腹を空かせているところだろうし」
先を行くアスランはそう声をかけてくる。
「あ、ありがとうございます」
「兵術学校の食事は質素で味気なかっただろう。それよりはおいしい自信があるから。クラウスもうちで食べるごはんが楽しみで仕方ないと言ってくれている」
「アスランさん、俺はそこまで言ってない」
勝手なことを言う。エルヴィを楽しませようという魂胆なのだろうが、正直なところオヤジっぽくて寒い。
まあ、楽しませようとしてくれるのなら、それはそれでクラウスとしては助かるのだが……
当のエルヴィは、表情が硬いままだった。
「さっきユージンに言われたこと、やっぱり気になるのか?」
「うん。私が、この国の敵かもしれないって。ここにいちゃ、ダメなのかも」
ユージンだけではない。出自の不明なエルヴィをカルガトのスパイと疑う者は、兵術学校に少なからずいた。エルヴィは記憶がないことに戸惑っているだけでなく、いわれもない疑惑にさらされている。
「十年前、この国とカルガトは戦ったのは知っているな」
「兵術学校で軽く教えてもらったから。この街も壊滅的な被害を受けたって」
エルヴィが、街を見渡す。こんなきれいな街並みが十年前は瓦礫の山だったなんて、信じられない様子だった。
「復興はしたけど、戦争で家族や友人を失った人はこの街にはたくさんいる。ユージンもその一人だ」
「ユージンの家族の、誰が?」
「知らない。あいつとは同じ中等学校に通ったけど、家族について話そうとしないから」
よっぽど、家族の死について思うところがあるのだろう。ユージンに家族について聞き出そうとした生徒が殴られた、という噂まであった。
「あの人が、カルガトを恨むのは仕方がないんだね」
「でも、それでエルヴィが後ろめたくなる必要はないんだ。あんたは何もしていない。そこらの人と同じだ。そんな普通の子が、ここにいて悪いことはないよ」
疑惑だけで追われ、裁かれるなんて、馬鹿げている。
だが、エルヴィは下を向いたままだ。
……やがて。
「クラウス」
エルヴィが、名前を呼んできた。
彼女は、左手を前に出している。
エルヴィが不安を訴えている。
仕方がないな、とクラウスは自分の右手を出して、彼女の手を取った。
エルヴィの背は、縮こまっている。
「しっかりと胸を張って、前を見るんだ」
クラウスは言う。これも四年前のアスランの言葉だ。クラウスは、アスランの言葉に救われてきた。エルヴィも助けてくれるはず。
「あんたに罪はないんだから、堂々としていたらいい」
エルヴィは言われるまま、胸を張った。下がっていた視線を上げる。それだけで、彼女の表情がよくなった。青い瞳が、より澄んで見える。
「ちょっと、落ち着いたかも」
「ならよかった」
クラウスは、ほっとした。
「おいクラウス、今日もあそこに……って、あれ?」
アスランが唐突に後ろを振り返って、二人が手を繋いでいるのを見る。
「ほう、二人ともそんなに仲良くなったのか」
「はうっ!」「ひゃあ!」
クラウスとエルヴィは、慌てて互いの手を離した。
クラウスは、自分の右手を見下ろす。自分もエルヴィも、当たり前のように手を繋いでいた。知り合ってから、まだ三日しかたっていないのに。
「大いに結構だ。青春しているじゃないか、クラウス。お前も恋人を持つ年頃だからな」
「違うって、そういうのじゃない」
満足そうなアスランに、クラウスは冷たい視線をやった。
「もちろん私も応援するよ。何なら公費でデートするか?」
「だから違う! あとさりげなく問題発言するな! 冗談でもダメだろ失脚する気か!」
クラウスが叫ぶ。街の人たちが視線を向けてきた。いけない、冷静にならねば。
「……で、どうしたんだよ。急にこっちを見て」
「ああ、そうだった。今日もあそこに向かうのか?」
アスランは笑ったまま聞いてきた。いいものを見た、とばかりに満足そうだ。
「ああ。花屋にも行っていいかな」
「それくらいの寄り道なら、妻もレーアも許してくれるさ」
「あそこって、どこ?」
エルヴィが尋ねてくる。
「墓だ。大事な人が眠っている。エルヴィもいいか? 帰り道の途中だから、そんなに時間はかからない」
「いいよ、ついていく」
クラウスはいつもの店で、花を買った。そのまま三人で教会へと向かう。
そのまま、教会の墓地の入り口にさしかかった。
「その袋、私が持っておくよ」
アスランは、手を差し出してきた。クラウスは「悪い」と言って、ローゼマリーから渡された紙袋を手渡す。
「じゃあごゆっくり」
アスランは空いたほうの手を振ってくる。
「アスランさんは来ないんですか?」
「私はいつも、ここで待っているんだ。命日とかならともかく、邪魔にならないようにね」
墓に眠っているあの子とのひとときを、邪魔しないように。
「エルヴィはどうする?」
クラウスは尋ねる。
「私、一緒だとダメ? 邪魔になるかな」
「ん? 別に邪魔にならないけど」
「なら、私も一緒に行く」
引き続き、クラウスについてくる。
二人きりになって、クラウスとエルヴィは墓の間を通っていく。クラウスには通い慣れた場所だが、ここもエルヴィにとっては初めての場所だ。エルヴィがはぐれないように、クラウスは注意する。
そして、目的の墓に着いた。
「ここなの? 本当に?」
クラウスが足を止めた墓を見て、エルヴィは言う。
「ああ、ここだ」
言いながら、クラウスは墓の上に積もった雪を払い落としていく。
「でもこのお墓、名前が刻まれてないよ」
「名前がわからないんだ。女の子だった」
「どうして、クラウスにとって大事な人なの?」
クラウスは、ひと呼吸おいた。
「俺が森で見つけられたとき、この子も一緒だった。死んでいた。きっと俺をかばってくれたんだと思う」
クラウスは名前のない墓を見下ろす。
――せめて名前くらいは刻んでやりたいのに。
そして、墓に花を供えた。
墓の前で屈んでいるクラウスの隣に、エルヴィは腰を下ろす。
「私も、祈ってもいい?」
青色の瞳が近くにあって、クラウスの顔を映している。クラウスは一瞬、どきりとしたが。
「いい」
「ありがと」
にこっとエルヴィは笑って、そして墓に向けて両手を合わせた。ゆっくりと目を閉じる。
クラウスも、いつもどおりに手を合わせた。目を閉じて、名前も知らない、だが四年前にクラウスを助けてくれた少女のために祈る。
二人で祈りのときを過ごして、そしてクラウスは、立ち上がった。
「そろそろ戻る。アスランさんや家族を待たせすぎたくないから」
「そうだね」
エルヴィも立ち上がった。二人で来た道を引き返していく。
「ありがとう、祈ってくれて。あの子も喜んでくれていると思う」
クラウスが礼を言うと、エルヴィはふふ、と笑みを浮かべた。
「これくらい、迷惑じゃないよ」
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