第5話

 目覚めたエルヴィという少女は、記憶を失っている可能性がある。調査は中止となった。ユージン、アレン、ローゼマリーは寮に戻っている。そして、エルヴィは脳波の検査を受けたりすることになった。

 一時間後、機械での精密検査が終わり、エルヴィはいったん、先ほどの医務室に戻された。

 クラウスは、引き続き彼女と一緒である。タルムに無理を言って付き添いの許可をもらっていた。

「あの、ごめんなさい、クラウス」

 ベッドの上のエルヴィが、下を向く。

「どうして謝るんだ」

「助けてもらったのに、もっと迷惑かけたみたいで」

 エルヴィは今、不安でいっぱいだ。

 ――四年前のあのとき、確かアスランさんは……。

「迷惑なんてかかっていない。悪いことをしたわけでもないし、全部、仕方がないことだろ」

 クラウスは笑顔を浮かべて、四年前のアスランと同じ言葉をかけた。

 とにかく、エルヴィの不安を少しでも消したい。

 ――四年前のアスランさんは、こんな気持ちで俺を励ましていたのだろうか。

「まるで、四年前の繰り返しだな。クラウス」

 傍らのタルムが、声をかけてくる。

「四年前?」

 どういうこと?と言いたげに、エルヴィの青い瞳がクラウスを捉える。

そうだ。似た者同士であることを伝えれば、きっとエルヴィは安心するだろう。

「俺も、あんたと同じだから」

「同じ? 私が、クラウスと?」

「ああ。俺も四年前に森の中で見つかったんだけど、それまでの記憶がない。覚えていたのは、クラウスっていう俺の名前だけだ」

 本当に、四年前の繰り返しみたいだった。

 ウルム近郊の森の中で発見されたこと。自分の名前以外のすべての記憶を失っていたこと、得体の知れない狼に襲われたこと……。

 クラウスとエルヴィには、あまりにも共通項が多すぎる。

 エルヴィは寒さに多少肌を荒らしただけで、ほぼ無傷だった。それが、右腕の骨を折っていたクラウスとの唯一といっていい相違点だ。

「ところでクラウス、この少女をどうするつもりだ?」

 タルムが、クラウスに再び視線を向ける。

「回復するまでは、ここで引き取っていても構わない。体に異常はないとのことだが、検査は続くし、ここを出られるようになるのは当分先になるだろう。だがいつまでもここにいさせるわけにもいかない。本当に記憶がないとして、帰る場所もないというなら、ここを出た後にこの少女はどこに行けばいい? クラウスも、訓練や講義がある。ずっと付きっきりでいるわけにもいかないだろう」

 厄介だった。今のエルヴィには記憶がない。帰る場所や身を寄せられる者がいるかどうかも忘れていて、このままでは路頭に迷うことになる。

 軍に匿ってもらう手もあるが、それでは身柄を拘束されているのと変わらない。保護という名目で、監視を受けることになる。

 エルヴィも、その不安を抱いたのだろう。下を向いた。

 だがクラウスは、落ち着いていた。エルヴィの肩にそっと手を載せる。

「これからのことは心配しなくていい。実は市長に、エルヴィのことを話した」

「市長?」

「ウルム、この街のお偉いさんだよ。いろいろ便宜を図ってくれるし、生活の場もきっと……」

 クラウスが言っている最中に。

 ドンッ、と医務室のドアが勢いよく開いた。

「やあー、ごきげんよう! 今日もウルムの雪景色は最高だねえ」

 陽気な声が、医務室に響く。そこに現れたのは、ウルム市現市長、クラウスの義理の父親、アスラン・トンプソンだった。両手を大きく振って、首から下げている入館許可証がぶらぶら揺れている。

「はあ……」

 突然現れた陽気な男に、エルヴィの目は凍りついている。

「公務を抜け出してこのような場所に来られるとは。職務専念義務違反ですよ」

「タルム教官殿、有給休暇はちゃんと取得しているよ。ワークライフバランスは大事だからね」

「市長殿もお暇なことで」

「し、市長? この人が」

 信じられない、とばかりにエルヴィはつぶやく。

「君かい? 雪の森の中に倒れていたというのは。クラウスから連絡を受けて、飛んできてしまったよ」

 アスランがずかずかと、エルヴィが横になっているベッドに歩み寄る。「ひっ」とエルヴィは声を漏らした。

「そんな驚かなくてもいいんだ。おっと、自己紹介しないと。私はアスラン・トンプソン。そこにいるクラウスの父親だ」

「クラウスのお父さんが市長だなんて」

 エルヴィは、クラウスとアスランを交互に見つめた。クラウスは、黒髪に黒色の瞳。対するアスランは、明るい茶髪に茶色の瞳だ。親子にしては、容姿があまりにも異なる。

 それに、もっと肝心なことがあった。

「でもクラウス、家族の記憶はないんじゃ」

「戸籍上の父親なんだ。身寄りがない俺を引き取って、養子にしてくれた」

 クラウスはこっそりと、エルヴィに事情を教えた。

「へえ、いい人なんだね」

「君、そろそろ自己紹介をしてくれてもいいんじゃないかな」

 アスランの声に、エルヴィはびくっとなった。

「わ、私、エルヴィといいます。よろしく……」

 あたふたしたまま名乗る。

「エルヴィ、いやぁ大変だったね。ウルム市の冬の寒さは厳しくて、森に住む獣すら下手すると凍死するくらいなのに。でも無事見つかって、しかも元気そうでよかった。ようこそウルム市へ。私は君を歓迎するよ」

「は、はあ」

 いきなり笑顔で歓迎されて、エルヴィは逆に戸惑っている。

「アスランさん、それよりもさっきの話については?」

「おっとクラウス、そうだったね。今後の話をしないと。君、居場所がないんだってね」

「え、ええ、はい」

 エルヴィは再び、伏し目になった。

「なら、私の家に来たらいい」

「え? ええーっ!」

 エルヴィが驚き、大きな声を上げる。感情の起伏が意外に慌ただしい子だ。

「い、いいんですか? 本当に」

「まさかそこまで驚かれるとは思わなかったよ。でもうちのクラウスは、今やこの学校の訓練生で家に帰ることのほうが少ない。部屋も余裕あるし、しばらく一緒に暮らす人が一人増えても問題ないよ」

「で、でも」

「市長殿も物好きですね」

 話に割って入ったのはタルムだ。

「初対面の上に、身の上も明らかでない者の身元を引き取るなど」

「初対面は認めるけど、この子はただの女の子だ。そして行き場がない子供なんて、私は認めない」

 アスランはそうやって、タルムの言を遮る。

「素性の怪しい者を市長殿ともあろう人が引き取ると、市民がどのような憶測を立てるか」

「噂が好きな連中は勝手にすればいい。それで私への支持がぐらつくとは思えないしね。現に出自のわからないクラウスを引き取っても、私は再選を繰り返して市長の椅子に座り続けている」

 アスランの自信に、タルムも笑みを浮かべた。

「先の戦争で壊滅したウルムの街を、十年で開戦前の九割まで復興させた。その実績と余裕は伊達ではないですね」

「だろう。それに、だ」

 アスランは、再びエルヴィに目を向けた。にや、と笑みを浮かべて、エルヴィはまたしても、「ひっ」と声を漏らす。

アスランはポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、スマホ。エルヴィにその画面を突きつける。

「この子も喜んでくれる」

 エルヴィが見せられたのは、写真だ。写っているのは、ショートカットの茶髪を赤いリボンで飾った、十一歳の女の子。小さなベージュのコートを着込み、頬をかすかに染めて笑っている。「かわいい」とエルヴィはつぶやいた。

「だろう? 私の自慢の娘だ。名前はレーア。兄のクラウスが忙しくしているせいで、心細くしている。話し相手になってくれないか」

「アスランさん、言い過ぎ」

 クラウスは抗議した。自分が悪者にされたみたいだ。

「おっと、すまないね。本人の目の前だった」

 ――絶対わざとだろ。

「で、どうする、エルヴィ? 私たちは歓迎する気満々だよ」

 アスランは話を進める。

「そ、そこまで言ってくださるなら、よろしくお願いします」

 半ば無理やりという感じもしないではないけれど、問題のひとつは解決した。

「よし決まりだ。君が元いた場所に帰る目途がつくまで、うちでゆっくりしていったらいい」

 アスランは満足そうにうなずいた。

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