第2話 雪に眠る銀色の少女

「アレン、止まってくれ。何かがいる」

 クラウスは声をかけた。十六歳(生年月日が不明なので推定)になり、ウルムにある兵術学校に入学した、一年目の冬。雪中行軍の訓練中のことだ。

クラウスのルームメイトであり、今回の訓練のペア相手であるアレン・マクガルは、肩にかけている機関銃に手をかける。

「どこに何がいたってんだ?」

「前方の倒木の向こうに白いのが見えた。何かが潜んでいるらしい」

 クラウスとアレンがいるのは、ヴィラン連邦北部、ウルム市近郊の丘陵地帯だ。真冬を迎えて、森は雪に覆われている。空気も冷たく、吐く息は白い。

「雪の中でヘタこいて怪我した候補生、とかじゃないよな。先頭で学校を出発したの、俺たちだし」

「狐か何かかもしれない。見てくる」

 クラウスは告げて、先へと向かった。またしても、倒木の向こうから白い湯気のようなものがあがっている。

「クラウス、気をつけろよ」

「ああ、わかってる」

 クラウスの声は、倒木の向こうに潜む何かにも届いたはずだ。狐か何かであれば、とっくに陰から飛び出して逃げているはず。だがそいつは動く気配もない。

 クラウスは近づいていく。そして倒木の向こうに潜む何かの正体が見えてきた。

 一人の、さらさらした銀髪が美しい少女だった。倒木に寄り添うようにして横たわっているその子は、白い服を着ていて、袖からのぞく肌は寒さにやられて青白く、荒れてしまっている。

「あんた、大丈夫か!」

 クラウスは、倒木を飛び越え、少女に声をかける。

 こんな粗末な服で、なぜこんなところに一人でいるのだろう。

だが考えている場合ではない。

「しっかりしろ」

 クラウスは少女の体を揺さぶる。

 少女の瞼が震えた。ゆっくりと目を開ける。雪原から見上げる晴天のような、澄んだ青色の瞳だった。

「生きてるな。今すぐ助けるから。アレン、来てくれ。人だ。衰弱して……」

 クラウスは少女に手を掴まれて、言葉を詰まらせた。凍えきった彼女の手はもちろん、冷たい。

「何だ?」

少女は笑みを浮かべた。

「よかった」

 消え入りそうな、澄んだきれいな声だ。クラウスとは初対面のはずなのに、友人や家族と再会したような安堵を感じさせる。

「ああ、あんたは助かるんだ。こんなところで一人でいた理由は後でしっかりと聞かせてもらうからな。こんな寒そうな服で」

 クラウスは励ます。

 だが少女の口から出た次の言葉は、不穏だった。

「……逃げて……」

「えっ?」

 少女は再び目を閉じた。

「クラウス、気をつけろ。九時の方向に何かがいる」

 アレンが警告した。クラウスは言われた方向に目を向ける。

 クラウスたちからかなり離れた場所に立っていたのは、一頭の狼だった。こちらを見つめている。体が大きい。

 飢えているとすれば、まずい。襲ってくるかもしれない。

「アレン、一発撃て。威嚇だ。あいつを追い払う」

 少女の近くで大きな音をたてるのは申し訳ないけれど。

「おうさ」

 アレンは、機関銃を構えた。狼の方向に銃口を向け、引き金を引く。

 銃声が響き、近くの木に着弾して、狼は慌てて逃げるはず、だった。

 狼は、雪を蹴る。だが逃げるのではなく、クラウスたちのほうへと駆けてきた。

「来るぞ、もう一発だ」

「こうなったら当てるぞ」

 アレンはもう一度、引き金を引いた。機関銃が立て続けに銃弾を放ち、薬莢を散らす。

 銃弾の列が狼の眉間めがけて飛び、そのまま何発かが脳天を貫く、はずだった。

 狼は、突如として姿を消した。

 煙のように、あるいは幻影のように。

 アレンの放った銃弾が、虚しく雪を散らす。

「消えた、だと!」

 アレンがわめく。木に隠れたのではない。揺らぐように、雪を煙の如く散らして消えた。

「右だ」

 クラウスは叫ぶ。狼は、姿を消した地点から三十メートルほど右の地点にいた。変わらずクラウスたちに迫ってきている。

 ――いつの間に、あんな移動を?

 普通の狼ではない。クラウスも、機関銃を構えた。アレンも再び目標を見つけて、機関銃を狼に向けた。もう一度銃弾を放つ。

 狼は横に跳ねた。その体の脇を銃弾が飛んでいく。

 クラウスも、機関銃の引き金を引いた。

 だが、もう一度、狼の姿が消えた。

「またかよ!」

 アレンが叫ぶ。

 クラウスは、左方から雪を蹴る音を聞いた。

 姿を消しながら迫ってくる狼は、弧を描くようにして迫ってきている。剥き出しの牙まで見えるようになって、クラウスは「うっ」と声を漏らした。

 人の首が丸ごと入りそうなほどに大きな口からのぞくのは、長い牙だった。人の指ほどの長さがある。咬まれたら、簡単に肉を引き千切られるだろう。しかも爪も大きく、ちょっとした刃物みたいだ。

 クラウスはそれでも、機関銃を放った。

 そして、狼は再び消えた。残されたのは、巻き上げられ、宙に舞う雪。

 クラウスの背後で、何かが雪を踏む音がした。クラウスはとっさに、背後に機関銃を振りかざす。

 狼が、そこにいた。口を開け、クラウスの喉を咬み千切ろうとしていた。暗い喉の奥が見え、その生温かい息が頬にかかる。

 クラウスの振りかざした機関銃の砲身は、その狼の横面に直撃した。狼が横に飛び、雪の上を転がった。

 灰色の毛皮を雪まみれにして、狼は立ち上がる。クラウスを睨み。再び、飛びついてきた。

 クラウスはとっさに機関銃を手放し、腰のサバイバルナイフを抜いた。振りかざし、飛びかかってくる狼の前足の付け根を切りつける。足元の雪に数滴の狼の血が散った。

「クラウス!」

 アレンがクラウスの前に割って入る。機関銃を構えたところで、狼は身を翻した。逃げていく。

「逃がすか」

 アレンが機関銃の引き金を引いた。狼は左右に跳ね、周囲の木を盾にしながら森の奥へと駆けていく。

「もういい」

 クラウスは、手でアレンを制した。アレンは発砲をやめる。

「何だったんだ、あいつ」

 逃げていく狼を見送るアレンをよそに、クラウスはサバイバルナイフをしまった。さっきの少女のところへと戻る。

 至近距離で銃声を聞いたはず。それなのに、少女は眠ったままだった。

「必ず助ける」

 クラウスは少女に着せるため、軍服の上着を脱ぎにかかった。だが、右腕に痛みを感じた。軍服が破けていて、その下の肌が切れている。攻撃したときにあの狼の大きな爪が当たったのだ。

「クラウス、せめて止血しろ」

アレンがバックパックから止血用の布を取り出した。上着を脱いだクラウスの腕に巻き始める。

「ちょっと切っただけだ。血もそんなじゃないし。終わったら無線で救援を求めてくれ」

「了解だ。厄介な訓練になっちまったよ」

 アレンはつぶやきながらも、クラウスの腕の手当てを終えた。クラウスは上着を少女にまとわせると、彼女の体を背負った。

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