銀色の魔女と灰色の魔女

雄哉

第1話 名前の刻まれない墓

 ……喉が痛い。

 きっと自分は、何かを叫び続けていたのだろう。

 ……地面に倒れたまま、手を伸ばしている。

 きっと自分は、どこかへ向かおうとしたのだろう。

 横たわるクラウスは、伸ばした自分の手を見つめていた。傷だらけで、しかも血にまみれた小さな手の先には、足跡と、血痕の列。鉄が錆びたような、血のにおいがひどい。

 ここは森の中だ。風に木が揺れ、葉がこすれる音しか聞こえない。

 とりあえず、起きないと。

 クラウスは動こうとするが、右腕がじくりと痛んだ。手首も指も動かない。見ると、右腕に は粗末なあて木が巻きつけられていた。折れているらしい。


 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。


 自分がどうして血まみれなのかも。どこから来たのかも。どこへ向かおうとしたのかも。右腕が折れている理由も。誰といたのかさえも。

 左手だけを使って、クラウスは起き上がる。

 そして自分のそばで、誰かが横たわっているのに気づいた。

 それは茶髪がきれいな、白い服を血で真っ赤に染めた、女の子の遺体だった。







 雨が降っている。

 クラウスは、墓の前に立っていた。名前の刻まれていない墓だ。刻まれているのは、安らかに眠る、という文言だけ。他の墓にはきちんと名前が刻まれているのに。

 クラウスの横で死んでいた女の子は、今はこの墓の下で眠っている。

「あの、アスランさん」

 クラウスは、隣に立つ大人の男に声をかける。スーツ姿で、クラウスよりも頭一つ分背が高いその男は、クラウスが濡れないよう傘を差してくれている。明るい茶色の髪が、優しそうな雰囲気を漂わせていた。

「何かな?」

「ごめんなさい。こんなところまで一緒にさせて」

 アスラン・トンプソン。この街、ウルム市の市長をしている人だ。病院に搬送されたクラウスに、優しく、たまに冗談を交えながら話しかけてきた。

「迷惑も何もないよ。ギプスを濡らすわけにもいかないしね」

 クラウスは、自分の右腕を覆うギプスに視線を落とす。

「ありがとう、ございます」

「そう言われたほうが、私も嬉しいな。死者は悼まれるものだ。好きなだけここに来たらいい。この子もきっと喜んでくれる」

 クラウスは異様な墓に視線を戻し、自身のこれまでを振り返る。

 森の中で救出され、このウルムという街の病院に連れ込まれた。見つけてくれたのは、この街の外れに住む男の子だった。普段人が入らない森から子供――つまりはクラウス――の叫び声を聞いたという。それで大人を連れて駆けつけた。

 意識を失う前のクラウスは、やはり何かを叫んでいたのだ。クラウスを発見したその男の子いわく、叫び声は人名のようで、繰り返し連呼されていたという。だが、遠くだったのでくぐもって聞こえて、何を叫んでいたのかまでは不明だという。

 そしてクラウスは、折れた右腕にギプスの処置をされ、療養した。衰弱していた体も回復して、こうして名前のない墓の前にいる。

「この女の子の名前も、俺は忘れてしまったのに」

「何も思い出せないのが、そんなに後ろめたいのかい?」

 アスランの問いに、クラウスはうなずく。

 自分がなぜあんな森の中で倒れていたのか、どうして右腕が折れていたのか、どこの街や村で暮らしていたのか、いつが誕生日なのか、何歳なのかも、クラウスは知らない。覚えているのは、クラウス、という自分の名前だけ。だから、死んでいた女の子の名前も知らなかった。

 そばにいたクラウスがこの有様だ。女の子の名前を明らかにする手段がなく、それゆえこの墓に刻まれる名前はなかった。

「ひどいな。俺、ずっと一緒にいたかもしれないのに、忘れるなんて」

「君は自分を責める言葉を吐くべきじゃない。悪いことをしたわけじゃないし、こうなったのは仕方がないことだから」

「でも」

 見つけてくれた男の子いわく、自分は女の子の名前らしいものを叫んでいたというのに。

「この女の子の遺体の近くには、狼の死体があった。体にナイフが刺さった状態の」

 アスランは、クラウスにその事実を告げる。

 実際、女の子の脇腹の傷と、狼の牙の形は一致していた。死因は、狼に咬まれたことによる失血死。クラウスの体にまみれていた血も、女の子のものだった。

「この子は、きっと君を守ったのかもしれない」

「なんで俺を……そんなことする必要、ないのに」

 言葉が出なくなって、クラウスは下を向く。

 丸まった背中に、手が当てられた。アスランの、大きな手だ。

「しっかりと胸を張って、前を見るんだ。君に罪はない。堂々としていいんだ」

 クラウスは、アスランに言われるまま胸を張った。視線を上げて、墓より先に広がる街並みを見つめる。

 それだけなのに、気持ちが落ち着いた。呼吸が楽になる。

「いい顔になったよ」

 アスランは微笑んで、そしてクラウスの前に回り込んだ。腰を降ろし、クラウスの顔をやや下から見上げてくる。

「クラウス、君の立場は理不尽だ」

 アスランの声が、厳かになる。何かに怒っているみたいだった。

「君は本来、温かな家族に恵まれているべきなんだ」

 クラウスのような子供は、男と女の大人と一緒に暮らす。そのことすらも、クラウスは忘れていた。救助してくれた大人が、父さんと母さんはどこにいるの?と尋ねたのに対して、クラウスは、それって何?と問い返してしまったくらいだ。

「子供が子供らしくいることが叶わない、などという不幸を、私は許すことができない。だから……」

「……だから?」

 声に怒りをにじませていたアスランだが、また温和な笑みを浮かべた。

「私に、君の父親をやらせてほしい。君の本当の家族が見つかるまで」

 クラウスにいるべき、いなければならない家族にさせてほしいと、この大人の男は言った。

「たぶん、君の実の親ほど、私は立派ではないと思う。代わりになりきれないかもしれない。それでも本来、君に与えられるべきものを与えると約束する。許してくれるなら、私と一緒に暮らさないか」

 ばちゃばちゃという音が聞こえた。クラウスは、音がしたほうに目をやる。

「やっぱりここにいたー」

 傘を両手で差した、茶髪の女の子が、こちらに走り寄ってくるところだった。クラウスよりもさらに小さい、七歳のアスランの娘。

 さらさらした明るい茶髪が、今は墓の下で眠っている女の子の髪と似ている。

「レーア、ここは墓地だ。走るのはやめなさい」

「ごめんなさーい」

 アスランに叱られても、女の子は悪びれる様子もない。傘をたたみ、父のアスランが差している傘の下に入る。

「クラウス、退院おめでとー」

 レーアが、にこにこと話しかけてくる。

「あ、ありがとう」

 病院にいるときから、レーアはアスランに連れられて見舞いに現れた。この間までは知らない者同士だったのに、もう懐いている。

「で、これからどうするの?」

「えっ? これからって?」

「おうち、わからないんでしょ」

「う、うん」

「なら、うちに来てよ」

 レーアが目を輝かせる。今ちょうどその話をしていたのに。

「一緒に暮らそうよ。楽しそうだし、いいでしょ」

 嫌だと言ったら、この子はぶーぶー言いそうだ。

「う、うん、一緒だよ」

 思わず、という形で、クラウスはアスランたちの家族になると告げた。

「やったー! 兄さん!」

 レーアが、クラウスに抱きついてくる。

 あまりに無邪気なのと、兄さん、という聞き慣れない言葉で呼ばれたのとで、クラウスはどうしたらいいのかわからない。

「実はもう、役所での手続きを終えたところなんだ。私たちの家族に迎えるための。今後必要なことは、おいおい決めていくことにしてね」

 アスランは、自慢げに言ってのけた。

「君……というのはさすがに他人行儀で嫌だな、クラウス、今日からお前は、私の息子、レーアの兄だ。私たちのことは、好きなように呼んだらいいからね」

 墓の下で眠っているこの子を差し置いて、いいのかな、という思いはある。

「きっと墓のその子も、クラウスがひとりぼっちになるのを望んでいないから」

 そこまで言うのなら……

 ぐう、という音が聞こえた。クラウスのお腹からだ。クラウスは恥ずかしくて、お腹を押さえ、頬を赤くする。

「兄さん、お腹空いたの?」

 レーアが、クラウスの体を放した。もうすっかりと、クラウスの妹になっていた。

「もうすぐ昼だし、それじゃ、私の家に帰ろう。ハンバーグを作ってやる」

 アスランはそう告げた。

「うん」

 クラウスは、アスランに続いて歩き出した。左手をレーアの小さな手に握られながら。

「母さん、お墓の外で待ってるよ。早く一緒に帰ろ」

「ユーリスさん?」

「そう!」

 ユーリス・トンプソン。アスランの妻、レーアの母であるとともに、この街の女医で、クラウスの折れた右腕にまともな処置をしてくれた人だ。

「うちの妻にも、挨拶をしないとだね」

「母さんも喜んでくれるよ、ゼッタイ」

 一つの傘の下で、三人の親子が一緒に歩いていく。



 クラウスが仮の家族を得てから、四年が過ぎた。

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