欠けた黒の月(三)

治療ヒール】の魔術さえ使えれば。


治療ヒール】の魔術であれば、時間をかければ重い病気や四肢の欠損さえ回復させることができる。カチュアが失ったのは右の手首のみだから、十分な魔力を有する優秀な魔術師ならば十日もあれば再生できるだろう。


 だが【治療ヒール】は上級魔術の中でも特に習得が難しく、並みの魔術師では一生をついやしても習得できない。おまけに魔素マナの絶対量が少ない私などでは、仮に習得したとしても実際に使うことはできないかもしれない。


 でもラミカなら。あの子は軍学校の在学中にいつの間にか【治療ヒール】を習得していたし、魔素マナも魔力も十分以上だ。きっとカチュアの手も完治することだろう。


 だが今からラミカを呼び寄せたとしても、いったい何日かかることか。連絡用の早馬を飛ばして八日、さらに国境を越えてここまでは順調に行っても片道十日以上、治安が悪化している今となっては予想もつかない。それまで諸侯軍が持ちこたえることができるかどうか……




 落ち込むカチュアをなだめて部屋を出た頃にはもう、紫色の月が朧気おぼろげに浮かんでいた。廊下で待っていたポーラさんは月明かりの廊下に軍靴を鳴らしつつ、ユーロ侯爵軍の現状を教えてくれた。


 皇帝軍はメドルーサ将軍に全権を与えて諸侯軍を圧倒しており、ユーロ侯爵家をはじめとする諸侯軍は百日足らずの間にいくつもの町や拠点を失っている。

 メドルーサは私達と同じ人族ヒューメルに間違いないのだが、そのけた外れの武力でことごとく敵を蹴散らし、皇帝からたまわった『流星戟アステロス』という長柄の武器で分厚い城門さえ叩き割ってしまうという。


 特に先日の野戦ではメドルーサの豪勇の前にカチュアが敗れ、軍そのものも大敗を喫してしまった。諸侯軍は戦力の立て直しを図っているが、最後の拠点であるクロエ砦がとされてしまえば翌日にでも皇帝軍がここに到達するかもしれない。


 私がエルトリア国内で得た情報は『諸侯軍劣勢、カチュア負傷』という断片的なものでしかなかったが、想定していたよりもよほど追い詰められている情勢のようだ。




「聞いての通りさ。メドルーサって化物にカチュアお嬢様がやられて、我が軍は壊滅寸前。この戦に勝ち目なんかありゃしないよ、エルトリアに帰ってそう報告するんだね」


「……メドルーサという人を止めれば良いんですね?」


「ああん?」


「私がやります、カチュアの代わりに」


「思い上がってんじゃないよ!」


 覚悟はしていたけれど、ポーラさんの反応と大声は思っていた以上だった。振りかぶった分厚い掌で頬をぶたれるかと思い目をつむったものだが、寸前で思いとどまってくれたようだ。


「カチュアお嬢様の代わりだって?ふざけてんじゃないよ、表に出な」




 有無を言わさぬ口調で外に連れ出され、篝火かがりびの下で剣を打ち交わすこと十数合。


 この人とは何度か剣を交えたことがある。訓練で二度、実戦で一度。剣術だけならともかく魔術を使えば簡単に負けることはない、そう思っていたのだがこの日は……




「お嬢ちゃん、あんたはいくさってもんを分かってないね。今のあんたには雑用係がお似合いさ」


 両膝を地に着き、しびれる右手を押さえて、ポーラさんの足下でその声を聞くことになった。

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