欠けた黒の月(一)

 大きな窓から見下ろす残雪の町並み。エルトリア国王の執務室は早くも春を思わせる陽射しに包まれているが、紫檀したんの執務机の向こうに座るベルナート陛下は困ったような目で、手にした書類と私を等分に見た。


「事情はわかった、友人を大切に思う気持ちも理解できる。だが一旦これは預からせてもらおう」


 書類には巡見士ルティアの職を辞するむねの内容と、私の名前が記されている。

 私はこの職を辞しエルトリアを離れて、カチュアの下に駆けつけるつもりでいた。


「陛下に対しても、国に対しても恩知らずとは承知しております。ですが何卒なにとぞ、私に友人を救う機会をお与えください」


「まあ待て。悪いようにはせぬゆえ、少し落ち着け」


 石床と平行になるほど頭を下げて今すぐにでも駆け出しそうな私を、ベルナート陛下は苦笑いで制した。


 陛下は私が以前から巡見士ルティアの職に憧れていたことも、そのために並々ならぬ努力を重ねたことも、この仕事にやりがいを感じていることも知っている。その職をててまで駆けつけたい友人について説明を求めるのも無理からぬことだった。




 季節は早春。エルトリアへの侵攻に失敗したハバキア帝国は現在、内戦の只中ただなかにある。


 多くの兵と有力な魔人族ウェネフィクスの将を失った皇帝ゲルハルトの力は弱まり、もともと皇帝の戴冠たいかんに反対していた諸侯が相次いで離反したことがその原因だ。


 カチュアの生家であるユーロ侯爵家も反皇帝を掲げる諸侯軍に参加した、というよりも他に選択肢が無かった。カチュアはエルトリア侵攻に際して遠征軍司令官アリフレートから処罰を受けており、紆余曲折うよきょくせつの末に別動隊の将軍ガルバランとも剣を交えることになった。今さら皇帝の側につけば処分をまぬがれないだろう。


 彼女の処分が有耶無耶うやむやになったことは幸いだったが、戦況はかんばしくない様子だ。皇帝麾下きかの猛将メドルーサの前に諸侯軍は敗走を重ね、いくつもの拠点を失ったという。さらにはカチュア自身が負傷したとのしらせが届いたことで、私は居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。




「カチュアは私のために、国を棄てる覚悟で帝国の将軍に刃を向けました。今度は私が彼女を助けなければなりません」


「話はわかった。ならば尚更なおさらこれは受け取れん」


「そんな!陛下、どうか私に友人の恩に報いる機会を!」


 ベルナート陛下は右手を上げて、泣き出しそうな私をもう一度制した。


巡見士ルティアユイ・レックハルト、なんじに命じる」


 今の私は怪我をした親友のことしか頭に無い。巡見士ルティアの任が務まるとは思えないというのに、陛下は何を命じようというのか……


「ハバキア帝国におもむき、皇帝軍と諸侯軍の戦況を逐一ちくいち報告せよ。エルトリアの国益にかなうと判断すれば一方に助勢することも可とする。ただちに任地に向かうが良い」


「……はい!」


 先程よりもさらに体を折り曲げ、すぐに身をひるがえした。

 カチュアの怪我は心配だけれど、ともかく生きていてくれて良かった。今度は味方として戦えるのが嬉しい、彼女も喜んでくれるだろう。


 ……そう思っていたのだ。この時は。




 王都で馬を借り受け、十数日の騎馬の旅の末に国境を越えてユーロ侯爵領へ。


 何度も帝国兵に呼び止められ、ならず者に襲われ、妖魔の姿を見かけて身を隠す旅ではあったが、愛用の細月刀セレーネ真銀ミスリルの指輪が危なげなく身を守ってくれた。この程度の危難を排することができないようでは巡見士ルティアの職など務まらないし、ましてカチュアを助けることなどできはしない。


 やがてたどり着いたのはベスチア市、ユーロ侯爵家の城下町。壮麗さよりも実用性を重視した、質実剛健という言葉を形にしたような城。名前と用件を告げてしばしのときが過ぎ、何度も見上げた城門の前で迎えてくれたのは浅黒い肌のたくましい女性だった。

 ポーラさんは大袈裟おおげさに抱きつき、何度も肩やら背中やらを叩いてきた。手荒い歓迎に息が詰まる。


「銀髪のお嬢ちゃん、久しいねえ。今度は何しに来たんだい?」


「カチュアが怪我をしたと聞いて来ました。カチュアはいますか?」


「……ついて来な」


 どこか空気が重い。城内が暗く沈んでいるのは、低く垂れ込めた分厚い雲のせいだけではあるまい。ポーラさんは軍靴を鳴らして無言で階段を上り、三階の奥にある質素な扉を顎で示した。


「失礼します。カチュア……?」


 嫌な予感に胸を掴まれつつ、恐る恐る扉を押し開ける。




 肩の高さで切り揃えられた黒髪、引き締まった細身の体。寝台の上に身を起こして窓の外をながめているのはかつての親友に間違いないのだが、弱々しい陽光に照らし出されたその姿を見たとき、私は膝から崩れ落ちそうになってしまった。


「……ユイちゃん?来てくれたの?」




 カチュアの頭には痛々しく包帯が幾重にも巻かれ、右の手首から先が失われていた。

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