ハバキア帝国潜入調査(五)
『調査継続中。そちらは帰還せよ』
そう書かれた油紙をフェリオさんに手渡し、自分でもその意味を考える。井戸の底に沈んでいたミハエルさんの短剣の鞘、その中に入っていた油紙に書かれた文字列。彼が無事だったのは良いけれど、どう受け取れば良いのだろうか。
フェリオさんは少し考え込んだが、すぐに顔を上げた。
「ユイ君、急いで
「はい。ミハエルさんは既に帝国に追われています。それを察知したからこそ私達に会わず、先ほどの文を残したのでしょう」
「そう。それに鞘だけを井戸に沈めたなら、短剣を抜き身で持っている。そういう事態かもしれないね」
「ミハエルさんが連れてきた駐在武官が、既に帝国に泳がされていた可能性もありますか」
「あるね。彼のことだから気を付けていたとは思うけど……」
フェリオさんがそこで言葉を止めたのは、会話する時間も考える余裕も無いということだろう。もしかすると、いや確実に、私達は帝国の網の中にいるのだ。
ほとんど人通りのない路地を歩いていると、すぐに複数の足音が迫ってきた。五十万の人口を誇る帝都とはいえ深夜のこと、追手に間違いないだろう。
このような場合の対処法は事前に打ち合わせてある。横道に
「安らかなる闇の精霊、来たりて
【
さらには同行者に【
私の鼓動が早くなっているのも、掌が汗で湿っているのも帝国兵が近づいているからで、フェリオさんの手を握っているからではない。決してそんな事はない……と思う。
「この道に入ったよな?」
「ああ。隊長に
黒っぽい服装の男性が二人現れ、小声で打ち合わせて立ち去った。やはり私達を探す帝国兵のようだ。百までゆっくり数えてから魔術を解除し、大きく息を吐き出す。
「やはり見張られていたようだね。
「はい」
人の気配を避けて裏通りを歩き、どうしても帝国兵を避けられない場合は【
【
「何度も魔術を使って疲れただろう。少し休むといいよ」
「はい、そうさせてもらいます」
【
家具の多くは壊れ、酒瓶が転がり、椅子や寝台なども
「眠れないのかい?」
「あ、はい。こんなふうに追われた経験はなくて。未熟ですね」
「無理に眠ろうと思わなくていいよ。目を
言われた通りに目を閉じると、少し気持ちが落ち着いてきた。
そういえば、と思い出す。遠い異国の廃屋だというのに、この光景は見たことがあるような気がする。
「あの、フェリオさん」
「ん?」
「少しお話しして良いですか?」
「いいよ。何の話だい?」
「私が育ったのは、こんな家でした。壁はぼろぼろで、扉も穴だらけで。テーブルは
「ユイ君、そろそろ行こうか」
その優しい声に目を開けた。窓から差す薄明るい光で廃屋の中が照らされている。
昨日、私はどこまで話せただろうか。ただ覚えているのは、フェリオさんが静かに私の話を聞いてくれたこと。時折頷き、私の目を見て。
この人は一晩中辺りを警戒しながら、私の話を聞いてくれていたのだ。
いつまでも助けられてばかりではいけない、今度は私がこの人を助けるんだ。
「はい。任せてください!」
私は立ち上がり、乱れていた髪を縛り直した。
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