ハバキア帝国潜入調査(五)

『調査継続中。そちらは帰還せよ』


 そう書かれた油紙をフェリオさんに手渡し、自分でもその意味を考える。井戸の底に沈んでいたミハエルさんの短剣の鞘、その中に入っていた油紙に書かれた文字列。彼が無事だったのは良いけれど、どう受け取れば良いのだろうか。


 フェリオさんは少し考え込んだが、すぐに顔を上げた。


「ユイ君、急いで帝都ここを離れよう。理由はわかるかい?」


「はい。ミハエルさんは既に帝国に追われています。それを察知したからこそ私達に会わず、先ほどの文を残したのでしょう」


「そう。それに鞘だけを井戸に沈めたなら、短剣を抜き身で持っている。そういう事態かもしれないね」


「ミハエルさんが連れてきた駐在武官が、既に帝国に泳がされていた可能性もありますか」


「あるね。彼のことだから気を付けていたとは思うけど……」


 フェリオさんがそこで言葉を止めたのは、会話する時間も考える余裕も無いということだろう。もしかすると、いや確実に、私達は帝国の網の中にいるのだ。




 ほとんど人通りのない路地を歩いていると、すぐに複数の足音が迫ってきた。五十万の人口を誇る帝都とはいえ深夜のこと、追手に間違いないだろう。

 このような場合の対処法は事前に打ち合わせてある。横道にれ、手早く詠唱を済ませた。


「安らかなる闇の精霊、来たりてついなる光を打ち消せ。【不可視インビジビリティ】」


不可視インビジビリティ】はその名の通り、他者から姿を見えなくする魔術。だが効果中は継続的に精神集中が必要、故にゆっくり歩く程度の動作しかできない、呼吸や足音といった視覚以外の情報は消すことができないなど制約が多い。


 さらには同行者に【不可視インビジビリティ】の魔術を掛ければ、当然ながら互いの姿も認識できない。フェリオさんの存在を私に伝えるものは掌の感触のみだ。

 私の鼓動が早くなっているのも、掌が汗で湿っているのも帝国兵が近づいているからで、フェリオさんの手を握っているからではない。決してそんな事はない……と思う。


「この道に入ったよな?」


「ああ。隊長にしらせてくる」


 黒っぽい服装の男性が二人現れ、小声で打ち合わせて立ち去った。やはり私達を探す帝国兵のようだ。百までゆっくり数えてから魔術を解除し、大きく息を吐き出す。


「やはり見張られていたようだね。手筈てはず通りにいこう」


「はい」


 人の気配を避けて裏通りを歩き、どうしても帝国兵を避けられない場合は【不可視インビジビリティ】の魔術を使ってやり過ごし、この数日間で見つけておいた空き家のうちの一つにお邪魔することにした。




開錠アンロック】で玄関の鍵を開け、中に滑り込む。家の中を一通り見回って人の気配がないことを確認し、ようやく落ち着いた。


「何度も魔術を使って疲れただろう。少し休むといいよ」


「はい、そうさせてもらいます」


不可視インビジビリティ】などという慣れない中級魔術を何度も使ったことで、私はかなり疲労していた。今すぐ何者かに踏み込まれれば、剣を抜いたところでまともに戦えないだろう。


 家具の多くは壊れ、酒瓶が転がり、椅子や寝台などもほこりまみれでとても使う気にはなれない。壁に背を預けて座り込み、フェリオさんの隣で外套にくるまって目を閉じたものの、気がたかぶって眠れそうもない。


「眠れないのかい?」


「あ、はい。こんなふうに追われた経験はなくて。未熟ですね」


「無理に眠ろうと思わなくていいよ。目をつむっているだけでいい」


 言われた通りに目を閉じると、少し気持ちが落ち着いてきた。

 そういえば、と思い出す。遠い異国の廃屋だというのに、この光景は見たことがあるような気がする。


「あの、フェリオさん」


「ん?」


「少しお話しして良いですか?」


「いいよ。何の話だい?」


「私が育ったのは、こんな家でした。壁はぼろぼろで、扉も穴だらけで。テーブルはほこりまみれで、酒瓶が転がっていて。私はそこで、こんなふうに膝を抱えていました……」




「ユイ君、そろそろ行こうか」


 その優しい声に目を開けた。窓から差す薄明るい光で廃屋の中が照らされている。


 昨日、私はどこまで話せただろうか。ただ覚えているのは、フェリオさんが静かに私の話を聞いてくれたこと。時折頷き、私の目を見て。


 この人は一晩中辺りを警戒しながら、私の話を聞いてくれていたのだ。

 いつまでも助けられてばかりではいけない、今度は私がこの人を助けるんだ。


「はい。任せてください!」


 私は立ち上がり、乱れていた髪を縛り直した。

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