儀仗兵ロットの憂鬱(五)

 冷たい両のてのひらに息を吐きかける。春の終わりとはいえ王都の夜はまだまだ冷え込む、まとわりつくような細かい雨が髪と衣服を重く濡らしていく。




 そういえば前にもこんな日があった。酒が切れて機嫌が悪くなった父親に殴られ、母親に割れた酒瓶を振りかざされ、命の危険を感じて逃げ出した夜のこと。


 あてもなくアカイアの街を彷徨さまよい、遠くに見える光に誘われて雨の中を歩くと、そこは煌々こうこうとランプの灯りに照らされた宿屋と酒場が連なる繁華街だった。千鳥足で歩く人や大声で歌いだす人達、派手な格好の若者や女性ばかりとはいえ、ともかく明るい場所で人に出会えて安堵あんどしたものだ。


 だが世の中は甘くなかった。売春宿の前で腕をつかまれしつこい勧誘に遭い、路地に入ると甘い香りの薬物を吸う若者がたむろし、巡回の兵士が賄賂わいろを受け取るところを見かけて身を隠し、何者かにいきなり口をふさがれ引き倒されて逃げ出し、市街地のはずれまで戻ると今度は野犬の群れに襲われ、何度も【睡眠スリープ】と【激痛ペイン】の魔術を駆使してようやく家に戻り、結局そのまま軒先で夜を明かした。少女の身で夜の街を徘徊はいかいすることがこれほど恐ろしいものだとは思わなかった。




 今の私は帰るあてのない浮浪児ではない。お金を払って宿に泊まることもできる、王宮の敷地内にある宿舎に帰れば暖かい部屋の柔らかいベッドで眠ることができる。


 でもロット君はどうする?このまま離れてしまえば彼は都会の誘惑に捕らわれ、『剣の達人エスペルト』という夢を忘れてしまうのではないだろうか。多くの若者がそれをこころざしても夢にたどり着かないのは、道半ばで命を落とす以上に様々な誘惑に負けてしまうからだ。


 何となく帰るきっかけを失ったまま時が過ぎていく。夜も更けたこの時刻ではもう宿屋も閉まっているだろう、深夜にずぶ濡れで王宮に戻っては何があったのかと怪しまれてしまう。


 辛い記憶を掘り起こしてしまい、考えるほどに迷路にはまり、とうとう私は集合住宅の軒下で膝を抱えたまま動けなくなってしまった。


「何やってんだお前……」


 どれほどの時間が過ぎた頃か、上から声が降ってきて目を開けた。背の高い影、懐かしい声、でもお酒の匂いがする。




 用件だけを伝えて帰ろうと思ったが、ずぶ濡れじゃないか、いいから入れと言われて部屋に招き入れられた。


 決して広くはない一間ひとまだけの部屋に、脱ぎ捨てた靴下、汚れた食器が積み重なった洗い場、様々なものが積み上げられた床。思っていた通りの惨状が広がっていた。


「たまには掃除しなきゃ駄目だよ、ロット君。お母さんが心配してたよ」


「うるせえ。風邪ひくぞ」


 雑に放り投げられたのは乾いたタオルと、私には大きすぎるシャツ。ちゃんと洗ってはあるようだけれど、どこか男の人の匂いがする。


「ええと、あの……」


「場所なんてねえよ。後ろ向いてるからさっさと着替えろ」


 重く湿った衣服を脱ぎ、私が二人並んで入ってしまうほど大きなシャツをに体を通す。余りまくった裾を軽く縛り、タオルで髪を拭く。絶対横目で見られると思っていたのに、彼は両手で目を隠して後ろを向いたまま身動き一つしない。あのエロガk……シエロ君のお兄さんだというのに。


「ありがとう。終わったよ」


「おう」


 短い返事に続いたのは気まずい沈黙。




「……泊まっていけよ。まだ雨降ってるぞ」


「……うん」


 どうしても私に寝台ベッドを譲ると言って聞かないロット君は、床の上で適当に衣服を寄せ集めて眠ってしまった。


 おやすみ、と声を掛けて、硬い寝台ベッドの上で毛布にくるまる。

 都会に流されて変わってしまったのかと思ったけれど、やっぱりあの頃の優しいロット君のままだ。あのエロガk……シエロ君のお兄さんだというのに。

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