最果ての魔術師(三)

 この日私は油断していたのだろうか。夜半に扉を軽く叩かれるまで周囲の気配に気づかなかった。常に危険と隣り合わせである巡見士ルティアとしては未熟と言わざるを得ない。


「お客様、起きておられますか?」


「……はい。何事でしょう?」


「領主様がお呼びです。夜遅くに申し訳ございませんが、ご支度ください」


 宿の主人に間違いないが、緊張した声だ。偽名を使い姿を変えていたというのに、数日でもう勘付かんづかれてしまったのだろうか。


「今からですか?よろしければ明日の朝に伺いますが」


「何としても今すぐお連れせよ、との申し付けです。すぐにご用意ください」


 気配を探るまでもない、既に部屋の周りを囲まれている。武器を持った者が窓の外に数名、廊下に数名といったところか。ただし全く気配を隠せていないところを見ると、専門の兵士ではなく素人しろうとだろう。


 だが逆に、その事実が私に逃亡をためらわせた。武器を持った村人が数名ならば魔術と剣術で退路を切り開くのは難しくないが、そのためには相手が追跡をあきらめる程度の傷を負わせなければならない。自分の不手際のせいで罪のない村民を傷つけて良いものか。


「……わかりました」


 扉の向こうにそう告げると、明らかな安堵あんど溜息ためいきがいくつも聞こえてきた。

 独自の階級制度で『二級村民』を見下してはいても、この宿の主人や周囲の村人達は悪人とまでは言えない。夜中に客人を呼びつけるような非礼を後ろめたく思っているのだろう、問題は領主を名乗るあの男だ。


「お待たせしました。ご案内願います」


「失礼します。杖をこちらに……!?」


 手にしたランプの灯りの向こうで、宿の主人が私の顔を二度、三度と覗き込むのが見えた。


 エルトリア王国の騎士階級であることを示す濃緑色の士官服、巡見士ルティアの身分を証明する銀製の首飾り、伸ばした背筋に肩の後ろまで届く銀色の髪。つい先刻まで杖を突いて歩いていた薬売りの老婆が若い女騎士フェミエスに身を変えていたのだから無理もない。


 相手はこのような時刻に呼びつけるほど疑いを深めているのだ、もはや姿を偽る必要もない。腰に提げた愛用の細月刀セレーネと歩行杖に使っていた長杖ロッドを手渡し、案内に従った。




 夜目にも立派に映る建物は煉瓦レンガ造りの二階建て、大きさも装飾も手入れ具合も地方領主の館に相応ふさわしい。いくつかの窓から煌々こうこうと光が漏れ、門前の爽やかな微笑を浮かべた若い男の胸像を照らし出す。


 独自の身分制度を作り、人々から労働力を搾取してしいたげ、勝手に領主を名乗り、役人に金を握らせて黙認させ、自らを神格化して陶酔に浸る。これだけでも十分すぎるくらい不快なのだが、建物の中に入ると思わず顔をしかめてしまった。左右に並ぶ使用人が全て若い女性ばかりだったから。


 さらに大理石の床を踏みしめ、門前の胸像と同じ表情の肖像画の前を通り過ぎ、装飾が施された両開きの扉を開けて、ようやく『領主様』の御前に参上した。


 赤い絨毯じゅうたんに赤いカーテン、謁見の間のごとき広間。三段高い段上で玉座を思わせる豪奢ごうしゃな椅子の上に足を組み、肘掛けに頬杖を突いてこちらを見下ろす赤毛の伊達男。


「変装はもう終わりか。巡見士ルティアユイ・レックハルト」


「お久しぶりです、魔術師フレッソ・カーシュナー」







たくさんのフォロー、ハート、コメント、★に励まされて、100話までたどり着くことができました。これほど長い作品にお付き合いくださり、ありがとうございます。


物語は中盤といったところですが、終章までのプロットはほぼ完成しています。

私の身に何か起きることがなければ未完のまま終わることはありませんので、よろしければ引き続きお付き合いください。

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