過去との決別

 深々と頭を下げて街外れのパン屋さんを後にした。この店は子供の頃、一度だけ泥棒をしてしまった場所だ。


 その日私は牧場のお仕事をしていたのだが、いつものように乳牛のミルティから直接牛乳を飲んでいたところを雇い主に見つかってしまい、殴られ蹴られた上に給金を貰えなかった。

 空腹に耐えかねてこの店のパンを手に取り逃げ出したのだが、すぐに目を回して倒れてしまった。気が付くとパン屋さんの家で、看病してくれた奥さんはもう一個パンをくれた。私は泣きながらそれを食べて何度も何度も謝り続け、もう何があっても二度と人のものは盗まないと誓った……。


 十年以上が経ってようやく謝罪し、あの時のパンが二百個は買えるお金を受け取ってもらった。

 立派になったな、また来てくれよ。と声をかけてくれたが、それで私の罪が消えたわけでもない。ただ今の私にできることを済ませて、心のつかえが少し減っただけだ。




 私は今日でアカイア市での任を終え、次の任地に旅立つ。その前にもう一人、どうしても会っておきたい人がいる。


「確かこの辺だったような……あ、あれかな?」


 街外れのさらに外れ、古い倉庫が立ち並ぶ一角。倉庫群は整然と区分けされてはいるものの、ところどころ馬車や荷物が置かれて見通しは良くない。


 しばらく探し回った末、ようやく見覚えのある馬車を見つけることができた。黒っぽい塗装はさらに剥げているようだが、耳の先が黒い葦毛あしげの馬はあの時と同じ子だ。


 さらに待つことしばし。陽が傾いてきた頃、やはりこの時刻に現れた。あの時は朝日を背にしていて顔がよく見えなかったが、体格といいたくましい髭面ひげづらといい、おそらく間違いない。


「あの……」


 いきなり声をかけられて相手は用心したようだ。数歩の距離をそのままに視線だけを向けてくる。

 今日の私は普段着とはいえ、腰に業物わざもの細月刀セレーネを下げている。目の利く人が見ればただの町娘とは思わないだろう。


「夕刻に荷を運ぶ商人さんですね?数年前にお世話になったことがあります。そのお礼をと思って参りました」

「……覚えがねえな」

「三年ほど前です。事情があって追われることになり、この馬車に逃げ込みました。翌日カラヤ村に着いたところで起こされ、パンを一つ頂きました」

「……」

「その時あなたは言いました、無料ただじゃないぞ、と。代金を払わせてください」

「生きてて何よりだ、お嬢ちゃん。だがお代はいらねえよ。うちは駅馬車じゃねえんだ」


 やはり。この時刻から夜を徹して荷を運ぶという事は、特別な事情があるという事だ。お金を受け取らないのも足がつくことを恐れての事かもしれない。


「ではお礼だけ言わせてください。あの時は貴方あなたのおかげで生き延びることができました。ありがとうございます」

「律儀なお嬢ちゃんだな。確かに礼は受け取ったぜ」


 私は頭を下げただけで立ち去った。これ以上引き留めるのは迷惑なだけだろう。人にはそれぞれ事情があり、礼を受け取らない自由もあるはずだから。




 この商人さん、先ほどのパン屋さん、乳牛のミルティ、ギルドの事務員レナータさん、新しい家族。何度も切れかけた私の人生の糸は、ぎりぎりのところで誰かにつないでもらってきた。まだまだ恩を返していない人はいるけれど、陽も暮れてきた。そろそろ宿に戻らなければ……


「ユイちゃん!ユイちゃんだろ、クレイマーさんの!」


 聞き覚えのある声につい足を止めてしまった。


「しばらく見ないうちに立派になったね。巡見士ルティアになったんだって?すごいねえ」

「……ええ」

「もちろん家に寄って行くんでしょ?お母さんにしらせてくるよ!」


 近所のおばさんの言葉に流されてしまったのか、それとも僅かな希望でも持っていたのか。私は数年ぶりに生家の扉をくぐった。


「……ただいま戻りました」


 家の中は私が出て行った時よりも暗く、狭く、ひどい匂いがした。

 それはそうだ、仕事、掃除、洗濯、片付け、洗い物、全てをになっていた者がいなくなったのだから。私がいなければ自立してくれるかもしれない、などという考えはやはり甘かったようだ。


「ユイ!帰ってきてくれたのかい!」

「いえ、ご挨拶にうかがっただけです」

「聞いたよ、巡見士ルティアになったんだってね」

「……はい」

「やっぱりねえ!お給料もいいんだろう?立派に育ってくれて鼻が高いよ」


 息苦しい。染みついた匂いのせいだけでなく、恨みつのる母親のせいだけでなく。

 この暗く狭い家が世界の全てに見えてくる。ここには呪いでもかかっているのか、遠く羽ばたく力を得たはずの私をまたこの場所に縛り付けようという呪いが。


「今日はお別れの挨拶に参りました。お父様にもよろしくお伝えください」


 腰の布袋を外し、酒瓶と食べ残しが並ぶテーブルの上に乗せた。袋の中身がじゃらりと音を立てると、私の姿を見た時よりも母親の表情が明るくなった……




 何もかもが想像通りだった。それを確かめるために、私はここに来たのかもしれない。


 呪いを解くために。いつまでも絡みつく鎖を断ち切り、今度こそ遠く旅立つために。

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