巡見士ミオ・フェブラリー

 鏡の前で何度も顔の角度を変え、おくれ毛を整え、くるりと一回転してブラウスの襟を直し、また顔の角度を変える。今さら顔の造形が変わる訳でもないというのに、細かいところが気になって仕方がない。


「ううん、やっぱり子供っぽいかな。リボンが大きすぎるのかな……」




 私は少々緊張している。もうすぐあのフェリオさんと待ち合わせの時刻だから。


 巡見士ルティアの先輩であり命の恩人であり、私の運命を切り開く鍵となった真銀ミスリルの指輪をくれたのも彼だ。強くて優しくて素敵な男性だと認識はしているけれど、異性として意識しているかと聞かれるとよくわからない。

 ただ、昨日任務を終えて王都に帰って来た彼から食事に誘われたときは、驚きと緊張のあまり声が裏返ってしまったのも事実だ。


「もしかして口紅濃すぎる?眉毛おかしくない?」


 もう時間が無いというのに、独り言をつぶやくたびに自分の顔がおかしく見えてくる。化粧の手順を間違ってはいなかっただろうか。


 情報収集を主な任務とする巡見士ルティアは時に容姿も重要とされ、特に女性は印象を変えるための化粧や服飾についての基本を学ぶのだが、正直なところこれが一番辛い研修だった。肌を整えて下地を塗って、次は乳液を塗るのだったか粉をはたくのだったか。

 先輩巡見士ルティアのミオさんという方に一通りの手順を教えてもらい、道具一式を支給されたのはいいが、この筆は何に使うものだったか……


「もう駄目だ、行かなきゃ!」


 どうしても気に入らない眉毛を諦めて化粧箱を閉じ、私らしくもないフリルのついたブラウスに薄緑色の上着を羽織って待ち合わせの店へ。




 黒を基調とした洒落しゃれた店構え、ランプの灯が揺れる薄明るい店内。磨き上げられた黒檀こくたんのテーブルの向こうで手を振るフェリオさんの姿を認めると、また私の頭の中は真っ白に消去されてしまった。


 最初に会ったのはもう二年以上も前になるが、この人の印象は全く変わらない。少し青みがかった鉄灰色の髪、笑うと見えなくなるような切れ長の目、中背の引き締まった体。優しさと強さと容姿と内面をこれほど高い水準で兼ね備えた男性を、私は前世でも今世でも他に見たことが無い。


 挨拶を済ませて席に着き、いくつか言葉を交わしたはずなのに、ほとんど記憶に残っていない。それどころか背後に足音が迫り、軽く肩を叩かれるまでその気配に気づかなかった。任務に諜報活動を含む巡見士ルティアとしては未熟と言わざるを得ない。


「ずいぶんと盛り上がっているのね。お邪魔だったかしら?」

「あれ?ミオさん?あれ?」


 研修で化粧の基本や洋服の着こなしを教えてくれた先輩巡見士ルティアのミオさんが、完璧な美貌に完璧な微笑を浮かべて背後に立っていた。


 輝く白金色の髪に白皙の美貌、持って生まれた優れた容姿に化粧の技術を上乗せしたミオさんは、『絶世の』という枕詞まくらことばが必ず前に置かれるほどの美女。あまりの美貌は隠密活動に向かないのではないかと思えるほどだが、この人の技術ならば顔や体の印象を変えることなど容易たやすいのかもしれない。


「いや、待っていたよ。さっそく乾杯しようか」


 フェリオさんの言葉にようやく、席が三つ用意されていたことに気が付いた。確かに彼は「巡見士ルティア就任のお祝いをしよう」と言っていたのだ、研修でお世話になったミオさんが一緒でも不思議ではない……のだろうか。本当に?


「では乾杯しよう、新しい仲間に!」

「よろしくね、ユイちゃん」

「あ、ええと、はい。ありがとうございます」




 ランプの灯が揺れるテーブルに硬い音が響いた。


 薄い硝子ガラスで作られた透明な杯も紅玉色の葡萄酒も、次々と運ばれてくる料理もさぞかし高級な品なのだろうが、私の味覚はほとんど仕事をしていなかった。フェリオさんとミオさんが発する言葉と二人の表情にばかり気を取られて、ろくに食べ物にも手を付けていなかったかもしれない。


「だいたいフェリオ、あなた誰にでも優しすぎるのよ。そんな事じゃいつか勘違いした女に刺されるわ」

「これでも気を付けているつもりだよ」

「全然ダメよ。ねえ?ユイちゃん」

「え?ど、どうでしょう?」


 優雅な手つきで自分のグラスに葡萄酒を注ぐミオさんは、微かに頬に朱が差してますます妖艶な魅力をかもし出している。絶世の美貌に加えて魅惑的な肢体、露出が多くとも決して下品ではない絶妙な着こなし、この人に好意を寄せられて断ることができる男性などいるのだろうか。


 お二人は交際しているのですか?と聞くことができれば楽になるのだろうが、それは容姿だけでなく全てにおいて決定的な敗北を認めることになってしまうかもしれない。

 結局私は何も言えず、痴話喧嘩ちわげんかに近い二人のやり取りを黙って見ていることしかできなかった。

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