魔術師の卵(三)

 エリューゼはこの王都フルートの貧民街で生まれ育ち、ほとんど町から出たことも無いという。


 先程見せた魔術は全くの独学であり、王宮近くの練兵所で訓練を行う魔術師を遠くから見ていただけで何となく使えるようになったという。ごみ捨て場から拾った魔術書で魔術を学んだ私と似たような境遇だが、彼女は文字が読めないのでさらに習得は難しかったはずだ。


「そうなんだ。じゃあ、こんな魔術は知ってる?」


 腰の水袋の紐を緩めて【水飛沫スプラッシュ】の魔術を唱えると、水袋から細い水流が飛び出して宙を舞い、頭上を一回りして再び水袋に飛び込んだ。エリューゼが水色の目をみはり、年相応の無邪気な表情を見せる。


「これは【水飛沫スプラッシュ】の魔術。あなたもやってみる?」

「……」


 まだ心を開いた訳ではないのだろう、いぶかしげに私を見たエリューゼは無言で右手の人差し指を水袋に向けた。それに応えて水袋の中身が動いたようだが、飛び出すとまではいかない。もどかしそうに眉をしかめるエリューゼの手を取って落ち着かせる。


「魔術はね、精神を集中して正しく詠唱すると楽に発現できるんだよ。心を静めて、私に続いて詠唱してみて。水の精霊、我はなんじを解き放つ。【水飛沫スプラッシュ】」


「……水の精霊?我は、なんじを、解き放つ?【水飛沫スプラッシュ】」


 たどたどしく詠唱を終えた瞬間、爆音とともに水柱が噴き上がった。数瞬の後、陽光を反射しつつ無数の水飛沫が降ってくる。私は間抜けにも、口を開けてそれを見上げてしまった。

 この荒々しい魔力、少し詠唱を教えただけで自分のものにするこの才能、魔術科始まって以来の天才と呼ばれたあのラミカに匹敵するのではないか。


「エリューゼ、あなたすごいね!?」

「……ふん」


 戸惑ったように、いぶかしむように、照れたように目をそらすエリューゼ。もしかすると汚れきった小さなこの体には、古代の大魔術師もかくやと思わせるほどの力が眠っているのかもしれない。その力で罪を犯し、才を磨くことなくうずもれさせるなどあまりに惜しい。


「あなたはすごい魔術師になるかもしれない。その才能、泥棒なんかに使うのはもったいないよ」

「……」

「良かったら私が魔術を教えてあげる。その力は人のために使おうよ」

「人のため?ふん、結局アンタも他の奴らと同じか」


 言葉の選択を誤ったのだろうか、エリューゼは急に冷めたような目を向けてきた。


 それはかつてフェリオさんから真銀ミスリルの指輪を頂いたときの言葉を意識したものだったが、残念ながらエリューゼの心には響かなかったようだ。

 無理もない、この子は今日を生きるのが精一杯で、世のため人のためなどと説いたところで綺麗事にしか聞こえないだろう。だとすれば。


「ねえエリューゼ、あなたはどんなパンが好き?バターたっぷりのスコッチ?それともチョコレート?」

「はあ?」

「お姉さんが買ってあげるよ。さっき捕まえたとき、持ってたパンを落としちゃったでしょ?そのお詫びに」

「え、やだよそんなの」

「大丈夫、私がついてるから。一緒に謝りに行こう。実は私も一度だけパンを盗んじゃったことがあるんだ。それもいつか謝りに行かなきゃって思ってる」

「嫌だって言ってんだろ」

「忘れちゃった?私はいつでもあなたを捕まえられるんだよ。言うこと聞いておいた方が良いと思うな」

「……」




 嫌がるエリューゼの手を引いて市街地に戻り、先程のパン屋さんへ。怖そうなご主人に向かって二人で頭を下げると、優しそうな奥さんが取りなしてくれた。


 ちゃんとお金を出して買ったチョコレートドーナツを食べながら引き返し、今度こそゆっくりお話ができる……と思ったのだけれど。


「おい、エリューゼ。てめえ一体どこで遊んでやがった」


 体格は良いがどこか不健康そうな男の人が現れ、エリューゼは急いで残りのドーナツを飲み込んだ。ぼろぼろの服で手をぬぐったのは、買い食いの証拠を消したつもりだろうか。


「遊んでる暇があったら売れるゴミの一つでも拾ってきやがれ。穀潰ごくつぶしがよ」

「……いま、戻るから」


 先程までの生意気な態度は影を潜め、消え入りそうな声で、小さな体をさらに縮めて答える貧相な女の子。


 察するにこの人は父親だろうか、これほどまでに以前の私と同じ境遇だとは思わなかった。

 きっとこの子は誰かの助けを必要としている、だが今の私にそんな力は無い。酷薄な親から引き離すことも、十分な力を身につけさせて世に送り出すこともできはしないのだ。


「待って、エリューゼ!」


 振り返った小さな体に一冊の本を押し付けた。表紙に『やさしいよみかき』と書かれた、パン屋さんの隣の店で買ったばかりの本。


「言葉を覚えなさい、エリューゼ。文字を覚えて計算を学んで、知識を身に着けるの。そうすれば何にだってなれる、いつか難しい魔術書だって読めるようになる。あなたならきっとできる」

「ああ?誰だてめえは。娘に余計なこと吹き込んでんじゃねえ」




 細い腕を掴まれて引きずられるように歩く小さな魔術師は、何度もこちらを振り返りながら夕陽が射す貧民街へ消えていった。

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