3 友人
「…れーん」
なんとなく呼んでみた。
が、みんみんみんみんみんみんみん、と息継ぎの間もなく続く蝉の声にほとんど掻き消されてしまったようだった。
ぺたぺた。
歩きながら橙色の窓を見る。
父さんがいつか買ってきた、一個うん百円の卵の黄身の色によく似ている。
スーパーで売っている、あの並の卵よりも、確かに美味しかった。
妹の綾がオムライスが好きだから、母さんがそれでオムライスを作ってくれた。
ふんわりと温かい、母さんのオムライス。
…俺は卵かけご飯がよかったけど、あのオムライスは美味しかった。
きゅ、きゅ。
そろそろ足が疲れてきた。
帰宅部の足には酷すぎる距離を歩いてきたと思う。
リュックが重い、肩が痛い。
ああ、もう少し計画的に物を持って帰っていればよかった。
そもそも蓮がいるのか分からないのに、こんなに歩いていいのだろうか。
もしいたとしても自分と反対方向に歩いていたら、絶対出会えないし。
おんなじ方向でも俺が蓮に追いつけるかと言ったら無理、無理、絶対できないだろ。
相手サッカー部だぞ、スタミナが違う。
蓮は何と言うか、ガタイのいい男、だ。
はあ、とため息を吐いた。
足を止めて、ちら、と教室の扉を見た。
一度、ここに来てほんとに最初、戻ろうとして開けてみたのだ。
いつもの扉が滑る感触の先、そこは暗闇だった。
説教後に入れられた押入れなんて比じゃない。
冬の青空の向こう、だだっ広い海の中の深い深い底、延々と続く無のような何か、だった。
…リュックを背負い直す。
また一歩踏み出した。
ぺたぺた。
ふと寂しくなって目を擦った。
うざい程にうるさかった蓮が、今では恋しい。
みんみんみんみんみんみんみん。
蝉がうるさい。
ミンミンゼミの声しか聞こえないのもなんだか異様で、耳を塞ぎたくなる。
一度だけ、蓮と蝉を捕りに行ったことがある。小学5年生のとき。
あのときは確か、アブラゼミとか、ツクツクボウシとか、いろんな種類のセミを捕まえた。
その捕まえた中でも、ミカドミンミン、という蝉が好きだった。
ミンミンゼミの変異型で、その時初めて見たから。
若葉色くらいの淡い緑色がミンミンゼミの黒色の中にたくさん入っていて。
楽しかった、楽しかったな。
がしゃ、とリュックの中で音がした。
相変わらず上履きは甲高い音を立てている。
ふと、誰かの鼻歌が聞こえてきた。
調子の良さげな、最近流行りの曲だ。
「…何だ?」
後ろを見る。
やはり廊下が広がっているだけである。
前を向いた。
廊下の向こう、色素の薄いくせ毛の先が、少し見えた。
「…れ、」
顔が見える。
懐かしさに目頭がじんとした。
「れん!」
鼻歌が止む。
ぱっと、目線がこちらを向いた。
「おー、大和だ、久しぶり」
いつもの蓮の声だ。
久しぶりの手がひらひら、とこちらに振られた。
「まさかいるとは」
そう言って、蓮がにこにこと微笑む。
リュックも何も持っていない、身軽な蓮が駆け寄ってきた。
「いぇーい」
ばん、と左手で背中を叩かれる。
背中と言ってもリュックだったが。
「っ、いぇーいじゃないんだよお前、ここどこだよ」
蓮のあまりにも呑気な態度にむっとする。
「…ああ、ごめん大和」
ぱ、と蓮の手がリュックから離される。
自分の黒い前髪が目にかかった。
ぶんぶんと首を振る。
「大和、ここはどこだと思う」
みんみんみんみんみんみんみん。
蓮の質問の意味が分からなかった。
「…それ、俺が聞いてんだけど」
俺知らないし、と蓮を睨みつける。
蓮が目を細める。
「俺だって分からないかもしれないじゃんか」
ぐ、と返事に詰まる。それもそうだ。
「…そっか…」
「ね」
窓側に蓮が付いた。
二人でまた歩き始める。
ぺたぺた、きゅ。
蓮がまた流行りの曲を歌い始めた。
「それなんだっけ」
どこかで聞いたことがあるはずなのだが、思い出せない。
「テレビのCMでやってた、俺もわかんないな…」
ああ、最近新しく発売されたグミのCMだった気がする。
どうにも曲名が思い出せない。
ふあ、と蓮があくびをした。鼻歌が止まる。
みんみんみんみんみんみんみん。
「教室の扉はもう開けた?」
あれ、と蓮が顎で示す。
「あ、ああ、一回開けた…」
ここに来て一番最初に。
「見たのは一回だけ?」
蓮が首を傾ける。
あのときの暗闇を思い出す。
「うん、一回」
人差し指をぴんと立てて、いち、と言った。
「何があった?」
みんみんみんみんみんみんみん。
未だ蝉が鳴いている。
「何もなかった」
ほんとに?と蓮がしつこく聞くから、ほんと、と答えた。
なんだか蓮がいつもより粘着してくる。
「ふーん」
蓮が何だか不満そうな顔をして、唇を尖らせた。
あ、と蓮が呟いた。
「もう一回、開けてみたら」
にや、と蓮が笑った。
「え、なんでだよ」
「全部の扉が何も無いとは限らないじゃん」
「はあー?」
「そもそも何も無いって事は無があるんだろ」
屁理屈か、と言いたくなった。
言っても何にもならなそうなのでぐっと堪える。
「ほら、それとか」
ぴ、と蓮が1つの扉を指差した。
「…これか?」
曇りガラスの向こうは相変わらずの紺色で、何かがあるようには見えなかった。
「そう、それそれ。開けてみなよ、何かあるかも」
ちょいちょい、と蓮が背中をつついてくる。
「…じゃあ、開けるよ」
左手に力を入れる。
みんみんみんみんみんみんみん。
がら。
ひんやりとした空気が肌を撫でた。
そこにあるのは、「無」ではなかった。
「標識だね」
普段自分達が使っている教室よりも少しだけ小さくしたくらいの大きさの空間に、ぽつんと道路標識が突っ立っていた。
標識には左向き矢印だけが描かれている。
少し、静かになる。
「…なんにも無くないよ」
ぼそ、と蓮が呟いた。
なんだか分からないけれど、決まりが悪くなって、また左手に力を入れた。
がしゃ。
みんみんみんみんみんみんみん。
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