第172話 バレンタインデー
日曜日は凪のお願い通りに昼からバイトに精を出した。
これまでは隠し事をされていたので僅かに不安だったが、理由が分かったので海斗の胸は晴れやかだ。
勿論バイトは何の問題もなく終わり、家に帰って昨日以上に濃ゆいチョコレートの匂いをあえて無視して凪と普段通りの生活を送った。
そうして更に約一週間が過ぎた二月十四日の昼過ぎ。海斗と凪は、意外にものんびりと過ごしている。
「そういえば、今日もバイトに行くの?」
「清二さんに出るなと言われましたので、今日のバイトは無しですね」
ベッドの上で海斗の
バレンタインデーとはいえ特に予定は入れていなかったのだが、強引に休みを取らされたのだ。
結果として凪と一日中一緒に居られて嬉しくはあるので、気持ちを切り替えて
「そうなんだ。なら、今日はずっと一緒だね」
「ですね。バレンタインデーにお家デート出来るなんて最高です」
「デートというか、もう一緒に暮らしてるけど」
「そこは言わないのが華ですよ」
約一週間前はバレンタインデーに気付かなかったが、当日となれば海斗といえどテンションは上がる。
凪も普段とは違う事が出来るからか、海斗の冗談に微笑を浮かべて突っ込みを入れた。
頬を緩めつつ、抱きしめている凪の頭をゆっくりと撫でる。
そうしていつも通り過ごしていたのだが、海斗は先程から微かな違和感を覚えていた。
「……」
本を読んでいる凪が、僅かに顔を上げて別の場所へ視線を向ける。
この一週間、偶に凪の自室で過ごしていたが、彼女は何回か同じ事をしていた。
しかし、今日は明らかに頻度が多い。
もしかすると海斗にバレないようにしているのかもしれないが、ずっと一緒に生活しているのだ。
今までと違う態度など、すぐに気が付いてしまう。
「さっきからクローゼットを見てますけど、何かあるんですか?」
「な、何でもないよ!?」
「はぁ……」
明らかに踏み込んで欲しくなさそうなので、素直に引いた。
バレンタインデーに何故クローゼットを気にするのか分からないが、強引に確かめるのはマナー違反だ。
ましてや凪の自室は彼女に掃除を一任しているので、もう海斗がクローゼットに触る機会もない。
訳が分からないと首を捻りつつも凪の背もたれになっていたり、昼下がりに眠くなったので少しだけ仮眠を取ったりなどして、あっという間に時間が過ぎていった。
「「ごちそうさまでした」」
晩飯を終えてしっかりと食材に感謝し、後片付けを終える。
いつもならすぐに風呂へ行くのだが、今日は引き留められた。
「ちょっと待っててね」
「はい」
僅かに頬を赤らめてキッチンに向かう凪を見送りつつ、にやけそうになる表情を必死に抑え込む。
いよいよ恋人からチョコレートをもらえるのだ。これで興奮しない男など居ないだろう。
一応、海斗が料理の主担当なので、冷蔵庫の中に何かあるのは分かっていた。
しかしあえて見ないフリをして今に至る。
どくどくと弾む心臓の鼓動を自覚しつつジッと凪が来るのを待っていると、彼女が姿を見せた。
手には綺麗にラッピングされた箱を持っている。
「その、バレンタインデーのチョコを作ったの。受け取って、くれる?」
瞳を潤ませながらの上目遣いは、僅かに首を傾げる仕草と相まって、あまりにも破壊力が高い。
海斗が断らないと分かってはいるはずだが、やはり緊張してしまうのだろう。
可愛らしい凪に頬を緩めて、大きく頷いた。
「勿論です。いただきますね」
しっかりと箱を受け取り、綺麗にラッピングを剥がす。
箱を開ければ、色とりどりの丸いチョコレートが入っていた。
「トリュフチョコレートですか?」
「うん。もっと手間は掛けれたけど、気合を入れ過ぎるのは止めた方がいいって言われた」
「まあ、特大のケーキとか出てきたらびっくりしたでしょうね」
凪はおそらくお菓子作りも簡単に出来てしまうので、発言通り本気を出せばかなりの物が作れるに違いない。
しかし豪華な物が出てくると気後れしてしまうし、海斗達はまだ学生なのだ。普通の物で十分だろう。
とはいえ、恋人からのチョコレートがとても大切なものであるという事も十分に理解している。
やんわりと断ると、凪が安堵に胸を撫で下ろした。
「頑張らなくて良かった」
「ちなみに、最初は何をやろうとしてたんですか?」
「勿論チョコレートケーキ。すっごく大きいの」
「まさかの当たりだった訳ですか……」
アドバイスしたであろう美桜に内心で感謝しつつ、頬を引き攣らせる。
もしかするといつか実現するかもしれないと思いながら、シンプルなトリュフチョコレートを一つ摘まんだ。
「取り敢えず、食べていいですか?」
「うん。試しで作ったやつは成功したから、大丈夫なはず」
「凪さんの腕は心配してませんよ。それじゃあ、いただきます」
一口サイズのチョコレートを、口の中でゆっくりと溶かしていく。
甘い物も食べられるしチョコレートなら何度も食べてきたのだが、今まで食べた物の中で一番甘い気がした。
しっかりと飲み込み、凪へと笑顔を向ける。
「滅茶苦茶美味しいです。ありがとうございます」
「なら良かった。はい、もう一個」
今度は凪が一つ摘まみ、海斗へと差し出してきた。
断るという選択肢などなく、すぐに口を開ける。
「はい、あーん」
「あーん」
以前のクレープと違い、チョコレートは指で摘ままなければならない。
そのせいで、海斗の口にチョコレートを放り込む際に、凪のしなやかな指が唇に触れてしまった。
ぴくりと体を揺らして指を引き抜いた凪が、頬を上気させてはにかむ。
「な、なんか、その、恥ずかしいね」
「ですね。でも俺、すっごく幸せですよ」
「私も。バレンタインデーがこんなに良い日だなんて思わなかった」
凪とて今までバレンタインデーに縁が無かったので、初めての事に興奮しているのだろう。
美しい笑みを見せる凪と笑い合い、その後も何個か彼女にチョコレートを食べさせてもらうのだった。
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