第149話 本当の居場所

 凪とデートの約束をしてから数日後。海斗と凪、そして美桜はボロアパートの前に居た。

 勿論、海斗の家で遊ぶのではなく別の予定の為で来ているし、美桜は沖嗣の代理人としてだ。

 そして目の前では、数人の引っ越し業者が昨日凪と共に荷造りした段ボールを運んでいる。


「何か、あっという間だったなぁ……」


 引っ越しはすぐに行うとの事だったが、まさか海斗が凪と婚約してからほんの僅かな時間で引っ越す事になるとは思わなかった。

 一月に突然引っ越しなど、普通は業者が忙しくて出来ないのだろうが、残念ながら海斗は詳しくない。

 もしかすると一ノ瀬家が何らかの手を回したのかもしれないが、知った所で意味のない事だ。

 とはいえ、あまりにもあっさりと引っ越しが決まり、目の前で実際に動かれていても実感が湧かないのだが。

 思わず呆けたように呟けば、隣に居る凪が心配そうな表情で海斗の顔を覗き込んできた。


「やっぱり、引っ越すのは嫌だった?」

「そうじゃありませんよ。ここに住んでたのは半年と少しですし、未練もないですからね」


 流されてはいないと示す為に微笑みを返すと、凪の顔が柔らかく綻んだ。

 海斗や凪と同じように引っ越し業者を眺めていた美桜は、満足そうな微笑を浮かべている。


「むしろ、ここに愛着が湧いてたら私達が困ってたよ。どう考えても人が生活出来る環境じゃないし、前々から気にしてたんだからね?」

「どうして美桜が知って――そりゃあ知ってて当たり前か」


 美桜は海斗の監視役だったらしいので、海斗の家の状況も把握していたのだろう。

 今更怒るつもりもなく肩を竦めれば、ばつが悪そうに美桜が苦笑する。


「ごめんね、海斗」

「美桜が謝る必要ないっての。むしろ、来てもらって悪いな」

「お父さんが業者を依頼したんだし、代理人の私が来るのは当たり前でしょ。海斗こそ謝罪する必要ないからね」

「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」


 海斗は一ノ瀬家を――沖嗣を利用すると決めたのだ。

 ならば代理人である美桜相手に、腰を低くするのはおかしい。

 勿論威張るつもりもないので小さく笑って話を切ると、タイミング良く業者が荷物を出し終わったのを伝えてくれた。


「それじゃあ凪ちゃん先輩の家に行こっか」

「だな。凪さんも、それでいいですか?」

「うん。行こう、海斗、美桜」


 家の鍵は後日部屋の点検後に大家に返すので、この場で海斗がする事は殆どない。

 空っぽになった部屋に鍵を閉めて、凪の家へ。

 業者よりも早く着かなければいけないのでタクシーを拾ったが、初めて乗るタクシーの値段に海斗が驚き、凪と美桜に笑われてしまった。

 恥ずかしくはあったものの、無事に凪のマンションへ辿り着き、すぐに荷物も運び終わる。


「「「ありがとうございましたー!」」」


 去っていく引っ越し業者を三人で見送ると、美桜が安心したという風に溜息をついた。


「さてと、荷解きはしないけど、それでもいい?」

「まあ、俺の荷物だし美桜が手伝う義理はないけど、もしかして帰るのか?」


 そもそも海斗の荷物は少ないので、美桜に手伝ってもらう必要などない。

 しかし、まだ夕方にもなっていない時間なのだ。

 沖嗣の代理人として来てくれたお礼にお茶でも出そうと思っていたのだが、美桜が凪の家に上がるようには見えない。

 確認を取れば、へらりと軽い笑みを浮かべて頷かれた。


「そ。折角の引っ越し初日なんだし、二人でゆっくりしたいでしょ?」

「俺は美桜が居ても気にしないけど」

「私も。だから、遠慮しなくていいよ?」

「遠慮するに決まってますー! まあ、気が向いたら遊びに行きますから、それじゃ」

「「あ」」


 海斗と凪の引き留めも虚しく、美桜がひらひらと手を振って去っていく。

 あっという間に二人きりになり、凪と共に苦笑を浮かべた。


「何か、美桜に申し訳ないね」

「ですね。今度家に来たら、いっぱいおもてなししましょうか」

「うん」


 次に美桜が来る時の予定を立てつつ、エレベーターで上に向かう。

 いつも通り鉄の扉に立って鍵を開けようとしたのだが、凪が海斗と扉の前に立った。


「今日は私が先に入る」

「……まあ、いいですけど」


 凪と一緒に帰る時は、荷物で手が塞がっている状況を除いて海斗が扉を開けていた。

 しかし、必ず先に入りたい訳でもないので、不思議に思いつつも凪へ譲る。

 彼女はすぐに鍵を開けて中に入ると、海斗が入る前にパタリと扉を閉めてしまった。


「えーっと……」


 直前までの凪はいつも通りだったので、気分を害してはいないだろう。

 鍵を掛けていない事からして、締め出された訳ではないのも分かる。

 いよいよ海斗の頭が疑問符で占められて硬直していると、僅かに扉が開き、アイスブルーの瞳を覗かせた。

 片方だけ見える綺麗な瞳は、不満の色に染まっている気がする。


「早く入ってきて」


 凪が短く言い、再び鉄の扉が閉まった。

 もう海斗の頭では凪が何を考えているか見当がつかず、取り敢えず扉を開ける。

 すると、整った顔立ちが喜びに満ちた甘い笑顔に彩られた。


「おかえり、海斗。今日からここが、海斗の本当の居場所だよ」


 今までは「ただいま」と言いつつも、あくまで凪の家だという認識だった。

 それを変えて欲しいという凪の願いに、目の奥が熱くなる。

 僅かに視界が滲む中、つっかえそうになる口を必死に動かす。


「ただいま、です。これから、よろしくお願いしますね」


 初めて家の鍵を渡された時は戸惑った。

 家庭事情を話し、全てを受け入れてもらい、凪の家を居場所だと思えと言われた時には嬉しかった。

 冬休みの間はずっと泊まっていたので、実質的に実家のようなものだった。

 そして今。凪の家は、同時に海斗の家になったのだ。

 溢れ出る感情が雫となって零れ落ちるが、凪はそんな海斗を見ても満面の笑みを浮かべている。


「うん! こちらこそよろしく、海斗!」


 差し出された手を取り、我が家へと帰るのだった。

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