第144話 包丁を使えるのは偉いのか
渚が海斗に甘えていいという許可が凪から出た後、海斗は暫く二人に挟まれていた。
しかしいい時間になったので、渚と共に晩飯を作っている。
凪はというと、リビングのソファに座って本を読んでいた。
「……むぅ」
妹が婚約者と料理しているのはやはり面白くないようで、物言いたげなアイスブルーの瞳がキッチンへと向けられている。
しかし未だに美桜から話された事を強く意識しているらしく、海斗がリビングを覗き込むと、焦ったように顔を逸らされた。
先程まで海斗の肩に頭を乗せていたのに、目が合うと視線を逸らすじれったい姿に苦笑を零す。
「ま、なるようになるだろ」
凪を気にしても仕方がないと割り切り、料理に集中する。
大量に作ったはずのカレーは、昨日の夜と今日の昼で無くなっていた。
今日は全く別の物にしようと思い、スーパーで買ってきた大根の皮を渚と一緒にせっせと剥く。
海斗は包丁を、渚はピーラーを使っているが、剥く速度は海斗の方が速い。
初めて見る海斗の手の動きに、渚が感嘆の声を上げる。
「お兄様は凄いですねぇ。お母様より手際が良いです」
「そりゃあ店での料理も任されてるからね。
客を待たせ過ぎる事なく、急ぐけれど作業は丁寧に。
バイトで
自信満々な笑みを零せば、はしばみ色の瞳に尊敬の色が宿る。
「流石ですお兄様。出来るだけ近付けたらいいのですが、包丁を使うのはお母様に禁止されてますので……」
「そりゃあそうだよ。俺も渚が包丁を使うなら止めさせるつもりだったからね」
いくら聡明であっても、渚は小学生低学年なのだ。包丁を使わせるのは危な過ぎる。
それにピーラーで剥くのは恥ではないし、むしろ簡単で怪我しない素晴らしい方法だ。
海斗は慣れただけに過ぎないので、真似しないで欲しい。
しかし渚はどうしても諦めきれないようで、ぷくりと頬を膨らませる。
「お兄様達大人だけ狡いです」
「いや、大人の中にも包丁で皮剥き出来ない人は居るよ?」
「そうかもしれませんが、お母様もお兄様も出来てます。どうせ凪お姉様も出来るんでしょうね」
「うん。出来るよ」
「ひゃあ!?」
突然背後から平坦な声が聞こえて来た事で、渚の体がびくりと跳ねた。
驚かせるつもりはなかったのか、綺麗な無表情だった凪の顔が僅かに曇る。
「まさかそんなに驚かれると思わなかった。ごめん、渚」
「い、いえ、お姉様が謝る必要はないですよ。それと、やっぱり出来るんですね」
「流石に最初は出来なかったけど、海斗の真似をしてたら出来るようになった」
「いや、真似してたらって言いますが、ほんの数回で出来るようになったでしょうに」
凪と一緒に料理をする以上、海斗の調理している姿を彼女には必ず見られていた。
だからといって真似出来るかと言われれば、普通は出来ない。
たった数回でそれなりの速さになったのは、流石凪といった所だろう。
片付け等はやれば出来ると言っていたが、こういう事まで出来るとは思わなかった。
渚も海斗と同じ気持ちなのか、可愛らしい顔立ちに呆れを彩らせる。
「お姉様はお姉様ですねぇ……」
「それ、褒めてる?」
「褒めてますよ。お姉様には追いつけそうにありません」
「追いつく必要なんかない。それに、包丁を使うのは面倒だから私もピーラーを使ってる」
やれば出来るとはいえ、わざわざ面倒な手段は取らない。
ある意味では怠惰だが一番効率の良い方法を取る凪の姿に、渚の肩から力が抜けた。
「なら、ピーラーを使うのも変じゃないですね」
「そういう事。文明の利器は有効活用すべき」
渚の気持ちが前を向いた事で、場の空気が明るくなる。
これで話は一段落したが、ふと疑問が頭に浮かんだ。
「ところで、凪さんは様子を見に来たんですか?」
「え゛。……い、いや、違うよ?」
「じゃあ何でキッチンに?」
「それは、その、えっと」
最初に質問した時点で露骨にうろたえたので、嘘をついているのは丸わかりだ。
凪が様子を見に来た理由が何となく分かるからこそ弄れば、彼女が視線をあちこちにさ迷わせ始めた。
姉の取り乱した姿に渚も理由が予想出来たようで、おそるおそる口を開く。
「お姉様、もしかして私とお兄様が話しているのが羨ましかったんですか?」
「ち、違う! 何か楽しそうだなーとか、いいなーとか、全然思ってない!」
「「……」」
「あ、あう……」
あまりにも綺麗な自爆に渚と共に呆れた目をすると、白磁の頬が朱に染まった。
妹にすら残念な人を目にしたかのような反応をされた事で、凪が羞恥の限界とばかりにくるりと踵を返す。
「わ、私部屋に居るから! それじゃ!」
海斗や渚の反応を待つ事なく、凪がキッチンから逃げ出した。
パタリと彼女の自室の扉が閉まり、渚とキッチンで二人きりになる。
「もしかして、お姉様って割とポンーー」
「渚、それ以上はいけない。口に出しちゃいけない事もあるんだ」
姉を弄れるようになったのは仲良くなった証拠だが、口にしては凪が可哀想だ。
とはいえ否定も出来ないので、心の中で思うだけにして欲しいと告げた。
一応は納得したようだが、崩れていた天才としての姉のイメージが更に崩壊したようで、渚の瞳が呆れた風に細まる。
「……理解したつもりでしたが、人って本当に見かけに寄らないものなんですねぇ」
「凪さんの場合は人付き合いが苦手な理由があるから、勘弁してやって欲しいな」
「分かってますよ。お姉様の昔の事は、昨日沢山聞いたので。にしても新たな発見過ぎますが」
混乱すると自爆するなど、凪が自分の口から話すはずもない。
それを渚も理解しており、肩を竦めて料理の下拵えを再開した。
「それにしてもぶり大根は、何というか意外でした」
「冬にもってこいの食べ物だし、昨日は肉たっぷりだったからね。バランスを考えないと」
晩飯のメニューは凪が大まかな物を決め、海斗が詳細を詰めている。
今日もそれは同じで、姉妹に手を繋がれつつも、最終的な判断を下したのは海斗だ。
高校生や小学生低学年の子が好んで食べるものではない気もするが、きちんと栄養の管理はしなければ。
肩を竦めながら応えれば、渚が尊敬の眼差しで海斗を見つめた。
「そんな所まで考えているなんて、流石ですね」
「全部清二さんから学んだ事だけどね。それに、凪さんに任せると肉ばっかり食べるし」
肉料理が悪いとは言わないが、偶には別の物を食べるべきだ。
幸いな事に、凪は肉料理を好むものの、それ以外の料理もきちんと食べてくれるので助かっている。
とはいえ敬われる程の事はしていないと肩を竦めると、渚の顔に苦笑が浮かんだ。
「……家では何でも食べてましたが、お姉様って実は子供舌だったんですね」
「渚に言われたらショックだと思うから、凪さんの前では流石に言わないでね」
「分かっていますよ」
二度目の姉弄りくらいは許容しつつも釘を刺すと、小さく頷かれる。
部屋に逃げ込んだ婚約者の事を考えながら、その妹と仲良く晩飯を作るのだった。
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