第143話 姉妹の間に挟まる男

「それじゃあまたねー!」


 海斗のバイトが終わり、皆で店を出てすぐに美桜が去っていく。

 彼女が凪に何か吹き込んだのは明らかだが、結局口を割らせられなかった。

 とはいえ、美桜が海斗と凪の仲を引き裂くような事をするはずもない。

 それに昨日の美桜との会話からして、凪に何を言ったのかも大体予想がつく。

 呆れながらも手を振って美桜を見送り、凪と渚に視線を向けた。


「取り敢えずスーパーに行こうか。渚は今日も泊まりでいいんだよね?」

「はい! 許可もちゃんといただきました!」


 自信満々に見せて来たスマホには、博之からの連絡が表示してある。

 迷惑を掛けないようにという注意と、海斗と凪によろしくとしか言っていないので、あまり心配していないのかもしれない。

 あっさりとスマホを見せる不用心な渚に苦笑を浮かべ、彼女の頭をくしゃりと撫でた。


「ならよし。凪さんもスーパーでいいですか?」

「はえっ!? う、うん!」


 既に凪の家で一緒に暮らしているようなものだが、それでも海斗一人で行先を決めるのは良くない。

 念の為に確認を取れば、華奢な肩がびくりと震えた。

 先程までジッと海斗に向けられていた視線が、露骨に逸らされる。

 海斗を避けているようにも見える態度に小さく肩を竦め、手を差し出した。


「ではお手をどうぞ」

「……ん」


 頬を薔薇色に染めた凪が、おそるおそる海斗の手を握る。

 しっかりと指を絡ませると、再び凪の体が跳ねた。

 明らかに海斗を強く意識してはいるが、それでも触れる事が嫌ではないと態度で示すのが可愛らしい。

 ただ、そんな姉の反応を見て渚がきょとんと首を傾げた。


「凪お姉様、喫茶店で美桜姉様と話してから、何だかおかしいですよ?」

「お、おかしい? 何が?」


 慌てた様子で視線をさ迷わせる凪の姿は、何かあったと言っているようなものだ。

 しかし突っ込むつもりはないようで、渚はゆっくりと首を振る。


「……いえ、何でもありません。お姉様がお兄様と手を繋いでますし、反対の手は私がいただきますね」


 空気を変えようと思ったのか、渚が初詣の時に近い強引さで空いた手を握った。

 凪よりも柔らかく、しなやかさのない子供らしい手がしっかりと海斗と繋がれる。

 正しく両手に華ではあるが、流石に凪が物申すのではないか。

 ちらりと凪の方を見ると、再びアイスブルーの瞳と視線が合った。


「……っ」


 どうやら凪は渚を注意する余裕もないらしく、海斗へと意識を集中している。

 流石に予想外だったのか、歩きながらも渚が僅かに身を寄せてきた。


「お姉様に何があったのか、お兄様は分かりますか?」

「さあ? でも手は繋いでくれてるし、多分気にしなくて大丈夫だよ」


 小学生低学年の女子に、思春期の欲望を説明する勇気は海斗にない。

 なのでさらりと誤魔化したが、凪の事を気にしなくていいのは事実だ。

 おそらくだが、美桜にあれこれと吹き込まれたせいで、海斗を前よりも意識しているだけなのだから。


(一応婚約者だし、キスとかその先とかもいつかはするのは分かってたはずだけど、凪さんだしなぁ……)


 お互いに異性として好意を抱いているからこそ、海斗と凪は婚約者になった。

 だが、凪の頭の中では性的な事に関する覚悟が全く無かったのだろう。

 もしくは、いくら大量に本を読んでいるとはいえ、そういう事に関する知識を持っていないのか。

 知り尽くしていたらそれはそれで嫌だなと、醜い独占欲に僅かだが内心で落ち込む。

 そんな海斗の内心は渚に悟られなかったようで、あまり納得していなさそうに眉を顰めつつも頷いた。


「まあ、お兄様がそう言うなら」


 一先ず気にしない事にした渚や、ちらちらと海斗を見ては視線が合う度に逸らす凪と共に、スーパーへ辿り着いて買い物を行う。

 その際でも凪はずっと繋いだ手を離さないので、何だかんだで離れたくないのだろう。

 それは嬉しかったが、渚も離さないせいで、姉妹に取り合いをされる男子高校生として海斗は注目を集めたのだった。





「渚は、海斗にいっぱい甘えたいって言ってたよね?」


 買い物から帰ってに荷物を片付け、ソファに座ってすぐに凪が渚へと尋ねた。

 明らかに聞いたような口ぶりなのは、おそらく昨日姉妹でたっぷり話したからだろう。

 既に凪の態度は普段の物静かなものに戻っているからか、凪の真意を読めずに渚が戸惑いつつも頷いた。


「は、はい。勿論お姉様にも甘えたいですが、それは昨日寝る時にいっぱいさせていただきましたので」

「それじゃあ、今日は特別に海斗に甘えていいよ。私は何も言わないから」


 姉としての責任感からか、それとも海斗を意識して今日は距離を取りたいのか。

 気持ちは分かるが、彼氏として流石に首を縦には振れない。


「え、いや、それは流石に……」

「いいから。……まあ、除け者にされるのは寂しいから、傍には居て欲しいけど」

「それなら、まあ。でも、凪さんが俺の一番なんですからね?」

「ん。ありがと、海斗」


 寂しさが滲んでいた顔に、安堵の色が宿った。

 慈しむように銀糸を撫でれば、気持ち良さそうに澄んだ瞳が蕩ける。

 一応話が纏まった事で、渚が「えっと」と声を漏らした。


「本当にいいんですね? お姉様の前でも遠慮せず甘えますよ?」

「むしろ海斗に甘える勉強になるから、遠慮しないで」

「今日は晩御飯をお兄様と一緒に作りますからね?」

「分かった。じゃあ今日はゆっくりしてる」


 凪が決して意見を曲げないと理解したようで、覚悟を決める為にか渚が一度瞳を瞼の奥に隠す。

 再び目を開けた彼女は、顔に強い決意を滲ませていた。


「……お姉様の気持ちは分かりました。という訳でお兄様、失礼します!」


 一瞬で表情を満面の笑みに変えた渚が、海斗の腕に抱き着く。

 小学生の体には流石に反応しないものの、大胆な行動に驚きを隠せない。

 甘いミルクのような匂いは、子供特有のものだろうか。


「ほ、ホントに遠慮ナシだね」

「お姉様が許可しましたので。んふふー、お兄様の腕は大きいですねぇ……」


 ご機嫌に頬を緩ませた渚が、抱き締めた腕に頬ずりした。

 無邪気な行為が微笑ましく、海斗の唇が弧を描く。

 反対の手で渚の頭を撫でようとすると、そちらの方の肩に重みが加わった。


「……」


 口を挟みはしないがやはり寂しいようで、凪が海斗の肩に頭を乗せている。

 それ以上をしないのは、渚の事を考えているからだろう。

 姉の行動に一瞬だけ渚が目を見開きつつも、全く気にせず再び海斗の腕を抱き締めた。


「今日って、もしかしてずっとこんな調子なのか……?」


 美桜が居らず左右で海斗を挟めるからだろうが、これでは海斗が身動きできない。

 もしこの場に他の男性が居たのなら、スーパーで注目を集めた時以上に嫉妬の念を向けられるはずだ。

 ここが家の中で良かったと安堵しつつ、桃とミルクの甘い匂いに挟まれるのだった。

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