第141話 名字
「……ん」
ゆっくりと意識を浮上させ、時刻を確認する。
非常に健康的な時間だったが、隣で寝ていたはずの美桜は既にいなかった。
どこに行ったのかと周囲を見渡せば、彼女がソファでコーヒーを飲みながら寛いでいるのが見える。
「おはよ、海斗。勝手にインスタントの使ったけど、駄目だった?」
「おはよ。別に構わないけど、俺じゃなくて凪さんに確認を取った方がいいんじゃないか?」
「キッチンの管理者は海斗でしょ? なら海斗が許可するだけでいいと思うんだけど」
「……まあ、確かにな」
最近は一緒に料理するようになったが、それでも海斗は凪にキッチンの管理を任されている。
それに一応言いはしたが、美桜が勝手にキッチンを使っても凪は何も言わないだろう。
むしろ「海斗に確認して」と言いそうな気もする。
あっさりと言い負かされて肩を竦め、布団を畳んで空き部屋に放り込んだ。
「にしても起きるのが早いな。特に予定もないだろうし、もっと寝てても良かったんだぞ?」
「朝早く起きるのが習慣になってんの。ま、気にしないで」
「あいよ」
昼までベッドの中でだらだらしている海斗達とは正反対の健康的な生活に、尊敬しつつ海斗もコーヒーを作る。
美桜の隣に座ってコーヒーを
「それで、凪さん達は?」
「さあ? 物音してないし、多分寝てるんじゃない?」
「そりゃあそうか」
凪は朝が弱い質なので、渚も似たようなものなのだろう。
昨日は遅くまで話していたようだし、起きるまで好きにさせるべきだ。
それまではのんびりとした時間を楽しもうと、肩の力を抜いてソファに凭れる。
すると、美桜が顔をほんのりと曇らせながら海斗の顔を覗き込んできた。
「朝から重い話をしていい?」
「確認を取られると怖いんだが……。まあ、いつかは聞かなきゃならない事だろうし、いいぞ」
「さんきゅ。……お父さんが、名字はどうするのかって」
「あー、それか」
利華と縁を切った以上、海斗が『天音』の姓を名乗るのはおかしい。
本来ならば『一ノ瀬』の姓を名乗るべきなのだろうが、どうにも気が進まなかった。
背をソファから離して苦笑を作ると、拒絶と受け取ったのか美桜が眉をへにょりと下げる。
「一ノ瀬を名乗りたくは、ないよね」
「そういう訳じゃないんだ。単に、俺が一ノ瀬を名乗ったら学校でも大変になるんだろうなって思ったんだよ」
別段、『天音』に拘りはないし、姓が変わる事に未練もない。
しかし姓を変えると、一ノ瀬の姓がありふれたものでない以上、まず間違いなく美桜との関係を疑われるだろう。
凪と親密な関係な上に美桜と家族だと知られれば、海斗の陰口が更に酷くなるはずだ。
どれだけ陰口を叩かれても気にはしないが、それで凪や美桜が心を痛めるのは避けたい。
海斗の言葉で大騒動が起きる光景を想像したのか、美桜の頬が引き攣る。
「あぁ……。確かに」
「だろ。だから、沖嗣さんや美桜には申し訳ないけど、今のところは『天音』を名乗らせてくれ」
「りょーかい。伝えとく」
ぱっと表情を笑顔に変えた美桜が、スマートフォンを操作し始めた。
すぐに操作は終わり、これで重い話は終わりだという風に美桜が緩い笑顔を浮かべる。
「にしても、海斗が凪ちゃん先輩とこれから同棲かぁ。あんまり羽目を外さないようにしなさいよ?」
「羽目を外すも何も、変な事なんて元々してないっての」
「ホントにぃ? 今までより一緒に居る時間が増えるんだよ? あれこれしたい事があるんじゃない?」
「今は凪さんの家に泊まってるし、時間はあんまり変わんないぞ」
海斗がこの家に引っ越したところで、今の生活と殆ど変わらないだろう。
強いて言うなら、冬休みが明けると学校に行かなければならないくらいだ。
肩を竦めて美桜の期待しているような事など起きないと示すが、彼女の笑みが小悪魔のものに変わる。
「じゃあ、したい事はあるんだね?」
「…………否定は、しない」
誤魔化そうとしていた事に突っ込まれ、渋面を作った。
海斗とて男だ。当然ながら欲望はあるし、凪とべったりくっついているからこそ、日に日にそれは大きくなっている。
しかし、海斗は一ノ瀬家と西園寺家の橋渡しなのだ。それを忘れてはならない。
「でも、俺と凪さんは一応婚約者だろ? 高校卒業とか成人するまで、下手な事はしちゃ駄目なんじゃないか?」
「今時そんな堅苦しい事考えなくていいって。というか、一緒に寝てるくせに今更何言ってんだか」
「…………俺、美桜に話してたっけ?」
布団が今まで一つしかないというのもあったが、それでも凪と一緒に寝ている事は伝えていなかったはずだ。
呆れた風な言葉に首を傾げれば、美桜が悪戯が成功したかのような笑顔を見せる。
「いや? 昨日のゲームのご褒美から察して、かまを掛けただけ」
「お前……」
「別に恥ずかしがる必要ないでしょうに。仲が良いのは悪い事じゃないんだから」
「まあ、そうだけどさぁ」
掌の上で転がされているような気がして、大きく溜息をついた。
文句の一つくらい言いたくはあるが、美桜の言葉は正論なので何も思いつかない。
仏頂面を作って美桜を見つめれば、彼女の顔が優し気な笑みへと変わる。
「そりゃあ羽目を外して仲に亀裂が入るなら問題だけど、そんな事にはならないでしょ?」
「それは大丈夫。凪さんが嫌がる事は絶対にしないから」
海斗の欲望がどれだけ大きくなっても、それを一方的に押し付けるつもりはない。
決意の証明の為に断言すれば、美桜が唇の端を釣り上げた。
「おっけーおっけー。つまり凪ちゃん先輩が嫌がらなければいいって訳ね?」
「頼むから、変な入れ知恵をするなよ?」
美桜の表情からして、何かを企んでいるのが丸分かりだ。
嫌な予感がして釘を刺したが、笑顔の質は変わらない。
「何も変な事しないって。ちょーっとお話するだけだから」
「そのお話が問題なんだろうが。はぁ……」
明らかに後日何かが起きると分かっていて放置するのは怖い。
しかし、流石に凪の意にそぐわない事はしないはずだ。
重い溜息を吐き出して、再びソファに凭れる。
「楽しみにしててね。おにーちゃん☆」
「うわぁ……。マジで聞きたくない兄呼びだ」
揶揄いしか込められていない呼び方に、顔を掌で覆って脱力するのだった。
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