第138話 誰の髪を乾かしたとしても

 晩飯を摂った後は風呂に入る事となり、片付けを終えて順番を決めるはずだった。

 しかし海斗以外の三人に一番風呂を勧められた結果、断りきれず湯船に浸かっている。


「何か、毎回こうなるよなぁ」


 凪の家に居る時や西園寺家に行った時、海斗は必ず一番風呂だ。

 それが嫌だとは言わないが、申し訳なくなる。

 とはいえ凪や渚、そして美桜は決して海斗の遠慮を受け取らないので、別の事でお礼をしなければ。

 頭の片隅で悩みつつも風呂を上がり、リビングに顔を出した。


「上がったぞ。次どうぞ」

「なら渚と美桜が行って。私は海斗の髪を乾かしておくから」

「りょーかいです。渚ちゃん、行こう!」

「はい、美桜姉様!」


 どうやら海斗が風呂に入っている間に順番が決まったようで、弾んだ笑顔を浮かべた美桜と渚が風呂場へと向かう。

 美桜は凪の家に泊まる度に誰かと一緒に入っている気がするが、おそらくお泊りでしか経験出来ない事をしたいのだろう。

 結果として、兄の許嫁とその妹の両方と風呂に入る経験が美桜に出来た。

 二人が喜んでいるのなら良いと、何も言う事なく見送りつつ凪の前に座る。

 風呂場の扉を閉める美桜の目が生温かいものだったのは、気にしない事にした。


「さてと、いつものやってくね」

「お願いします」


 ドライヤーから出る温風と、細い指が髪を撫でる感覚に身を任せる。

 西園寺家に泊まった時も含め、かなりの期間凪に髪を乾かしてもらったのだ。

 抵抗感など欠片もないし、むしろ楽しみにすらなっている。


「ん、乾いた。触ってていい?」

「お好きにどうぞ」

「それじゃあ、えい」


 凪が可愛らしい掛け声と共に、海斗の肩を掴んで後ろに引っ張った。

 いつもの事なので驚きはせず、体に掛かる力に身を任せて倒れ込む。

 勿論、倒れ込む先はカーペットだが、頭だけは別だ。

 スカート越しではあるものの、それでも十分に柔らかさを感じる太腿が、海斗の頭を受け止めた。


「んふふー」


 頬をゆるゆるにした凪が、海斗の髪を好き勝手に弄る。

 海斗の髪を触る事の何が楽しいのか未だに分からないが、乾いた後の髪を触られるのにも慣れた。

 風呂上りで体が温まっている事もあり、動く気も起きず心地良い感覚に浸る。


「渚はともかく美桜も居ますし、今日は辞めとくのかと思ってましたよ」

「辞めたりなんてしない。これは、私だけの特権なんだから」


 誰が泊まりに来ようと、何があっても、海斗の髪を乾かしたい。

 そこまで価値のあるものとは思えないが、凪の可愛らしい独占欲に小さく笑みを零す。


「そうですね。凪さんにしか乾かしてもらいませんから」

「本当に、誰にも乾かしてもらっちゃダメだからね。他の人の髪を乾かすのはいいけど」

「いいんですか?」

「だって、そうじゃないと渚の髪も乾かせなくなるでしょ」

「……まあ、そうですね」


 婚約者が自分以外の人の髪を乾かすなど、機会があるかは別として面白くないだろう。

 そう思ったのだが、確かに渚の髪を乾かせないのは問題だ。

 納得は出来たものの、それでも申し訳なくて眉を下げれば、凪の指が海斗の眉をそっと撫でる。


「私が許可したんだから、海斗は気にしないでいいんだよ」

「……了解です。でも、俺が一番大切なのは凪さんですからね」


 凪が納得しているのなら、海斗がとやかく言う事ではない。

 彼女の優しさを受け入れつつも、決して優先順位は間違えないと改めて口にすれば、小さな唇が柔らかくたわんだ。


「それも譲れない事だから、嬉しい」


 機嫌を良くした凪が、海斗の髪だけでなく顔にも触れ始めた。

 形を確かめるような撫で方がくすぐったく、けれども逃げたいとは思わない。

 今日は初詣からずっと慌ただしかったので、いつも通りの穏やかな時間が一段と心地良い。

 そのせいで眠気すら沸き上がってきて目を閉じていると、かなりの時間が経ったのか、脱衣所への扉が開かれた。


「凪ちゃん先輩、上りま――」

「お姉様、お風呂どう――」


 力の抜けている体が、勢い良くリビングに入ってきた妹二人に反応出来るはずがない。

 結果として、膝枕されている光景がバッチリと見られてしまった。

 美桜と渚が驚きに目を見開いて言葉を止め、その後にまにまと意地の悪い笑みを浮かべる。


「なるほどぉ。私と渚ちゃんを一緒に入らせようとしたのはこういう事かぁ」

「あ、私達の事はお気になさらず。それとももう一度お風呂に入ってきた方がよろしいでしょうか?」

「……大丈夫だから。ほら、凪さんも風呂に入ってきてください」

「う、うん」


 二人からの揶揄いを頬を引きらせつつも流し、凪を風呂へ行くように促した。

 流石に恥ずかしかったのか凪がうっすらと頬を染めつつ、自室へと下着類を取りに向かう。

 その間に渚が海斗に近付いてきて、くるりと背を向けて座り込んだ。


「お邪魔して申し訳ありませんが、私の髪を乾かしてください、お兄様!」


 先程の笑みはどこへやら。渚が期待に頬を緩めながら海斗へ頼み込んだ。

 それがこれ以上突っ込まない為の条件なのか、それとも単に乾かしてもらいたいからなのかは分からない。

 どちらにせよ渚の頼みを断るという選択肢など存在せず、ドライヤーを手に取る。


「分かったよ。前と同じでいいんだね?」

「はい!」

「あー、ズルいズルい! 私も海斗にしてもらいたいなー!」


 渚の髪を乾かそうとしたのだが、美桜が割って入った。

 同じ妹としての立場から言ったのだろうが、彼女は最近まで一番親しい友人だったのだ。

 流石に頷けはせず、首を傾げる。


「え? 美桜の髪も俺がやるのか?」

「ダメ?」

「流石に駄目だろ」

「えー、渚ちゃんと同じ妹でしょー! ケチー!」

「……ケチも何もないと思うんだが。そもそも、凪さんが絶対ダメって言うぞ」


 渚ならまだしも美桜の髪を海斗が乾かすと、いくらなんでも凪が嫌がるだろう。

 そう思って苦笑を浮かべると、着替え等の準備を終えた凪が自室から出て来た。

 どうやら海斗と美桜の会話が聞こえていたようで、アイスブルーの瞳が海斗達に向けられる。


「美桜ならいいよ。渚と同じで特別」

「は?」

「やった! ありがとうございます、凪ちゃん先輩!」


 あまりにもあっさりと婚約者から許可を出され、呆けた声を上げてしまった。

 反対に美桜が歓喜の声を上げたものの、予想外過ぎて頭が追いつかない。


「な、凪さん、いいんですか?」

「うん。美桜がそれでいいなら、髪を乾かしてあげて」


 凪が僅かに目を細め、美桜を見つめる。

 透明な視線にどんな意味が込められているのか、海斗には察せなかった。

 しかし美桜は察せたようで、美しい微笑みを浮かべる。


「本当にありがとうございます、凪ちゃん先輩」

「という訳で海斗、後はよろしくね」

「は、はぁ……。分かりました」


 海斗には全く理解出来なかったが、二人が納得しているのなら気にしたら負けなのだろう。

 そう割り切り、風呂場に行く凪を見送って妹二人に視線を戻す。


「早くお願いします、お兄様!」

「ふふー、楽しみー!」

「……二人同時って、無理じゃね?」

「「えー」」


 どうやら、何が何でも一緒に髪を乾かしてもらいたいらしい。

 残念そうな声に説得を諦め、重労働になるのを覚悟してドライヤーを手に取る。


「ああもう、こうなったらやってやる!」


 男子からすれば夢のような光景かもしれないが、海斗の胸の半分以上を満たしているのは自棄だ。

 ドライヤーのスイッチを入れ、美しい黒髪とブラウンの髪に温風を当てる。

 案の定、楽しむ暇もなく忙殺される海斗だった。

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